エゲツナク、ブットビタイ

無難に生きてきた。もっと自由に生きていいと知った。ぶっとんでみたい。ぶっとぶまでのリアルな軌跡。

コミュニケーションのオモシロサ

先日落語をみる機会がありまして、落語家の方が、「面白い」という言葉は「笑える面白さ」だけでなく、全部で6つの意味があるとおっしゃっていた。趣があるとか、興味深いとかいろんな意味。その方は、落語を「笑いの面白さ」だけではない「面白さ」を伝えていきたいのだという。

なるほど。そんないろんな意味でコミュニケーションはオモシロイ。そしてすこし怖い。と思った今日このごろです。

◼️ 勝とうとするコミュニケーション  ◼️

自分でやってしまうこともあるんだけど、会話をしていて勝とうとすることがある。張り合う感じ。どうも「勝負」のコミュニケーションをしてしまうと、後味が悪い。ほんでそんな会話をされるとあんまり楽しくない。わかります?

なんというか、シチュエーションと相手にもよるのでなかなかわかりにくいかもしれないんですけど、いらんとこでアドバイスしてきたりとか意見を押し通そうとしてきたりとかなんか張り合ってきたりすんの。

張り合う気持ちはわかるんです。自分も時々それやっちゃうし、自分の身に覚えはあるので。振り返れば、だいたいはすこしイラついたときにやっちゃう。「言われんでもわかっておるわ」とか「お前に言われたくねーよ」とか「なんでわかってくれないの」とか少し感情的になってしまう瞬間にそうなってることが多い気がする。自分の足元がぐらついた時に、プライドとか優位性を保とうとしている。そんな感じ。

受け止める側の感じ方でしょ、と言われればそれまでなんだけども。そう思ってる時点で気づいてない可能性があるし、そう感じさせてしまう時点で知らぬ間に信用を失っているかもしれない。こっわ。気をつけたい。

◼️ 勝ち負けのいく末 ◼️

コミュニケーションっていろんな種類がもちろんあるのだけど、基本的にはちゃんと言葉とか感情とかがお互いにキャッチボールができて成り立つものだと思う。もちろん喋ればいいってもんじゃないし、時には沈黙や間も大事だし、聴くことも訊くことも大事だと思いますよ。

勝とうとするコミュニケーション。張り合ってくるコミュニケーションともいえるな。このコミュニケーションって果たして心は通い合っているのだろうか。少なくとも、「私はこうだから」となかば強制的に押し付けるようになるので、その相手はすっきりしない。相手のことを考えられているのだろうか。お互いが「私はこうだから」のぶつけ合いで、それでもお互いに相手のことを理解しようとして結果的にスッキリできるならいいと思う。

でも、「私はこうだから」ってのをすこし押し付け気味に言った時に相手が「ふーん、そっか。。。」とか「まあそれでいいよ。」とスッて引いた時ってものすごく危険な気がするのです。それって全然よくないです。

感情的にならずに冷静に言ったから大丈夫とかそういう問題ではないのです。勝った(と思っている、もしくはそれすら無意識かもしれない)人はすっきりしてるし、下手すると「わかってくれた」って思ってるかもしれない。でも、相手はたぶん「あ、この人しんどい」って感じてるはずなのです。

このときのコミュニケーションって、相手を従わせたことになっていると思う。そしていくら自分が感情的にならずに言ったと思っていても、相手は気づいてるか、ナニカ感じとっています。

「あ、この人勝とうとしてる。」「この人勝って満足してる。」って。
ほんで「この人はなにを言っても反論してくるし、話を聞いてくれないな。」って。
いくとこまでいくと「もういいや。この人とはあんまり話さんとこ。」って。

これ自分で気づいたことだから書いてるんだけど、「怖い。」と思いました。信用を失っているのかもしれないのです。やっば。

もうこれが、怒りの感情を伴ってこれをやってくる人はほんまにしんどい。でもワイも「だからこうでいってるじゃん!」とか「じゃあもういいよ!」みたいになってることは振り返ってみると、あります。ごめんなさい。最近も身近な人に怒りの感情を乗せたコミュニケーションしてしまったなってのはある。圧を与えてしまった感じ。

◼️ 見出し思いつかない。。。 ◼️

勝ってしまうコミュニケーションってテクニックの一つのようでありながら、とても強引なテクニックで好ましいものではないと思うのです。時には勝負が必要なコミュニケーションもあるでしょう。商談とかディベートとか。でもそれを普通にやっていると、それで損してしまうこともあるなって気がしました。

初対面の人にそんなコミュニケーションはよっぽどできることではないので、信頼関係がすこしできつつあるという捉え方もあるかもしれない。

ちなみに、少なからず相手にぶつけるというか、投げるようなコミュニケーションなので余計に勝ち負け感がでるんです。でも投げるのではなく、感情的にならずに「置く」ような話し方だと勝ち負け感は薄れると思います。分かり合える。

「私はこうだから!」ではなくて「わたしはそれについてはこう思う。」って感じ。話し方伝え方一つで変わるもんです。おもしろい。

◼️ まとめにかかる ◼️

ワイ自身は基本的に、中立中庸の立場でいたいのですが、ときに勝負意識で会話をしている時は相手のことを平等に見れてないんだろうなって感じてます。

誰かと会話した時に、なんだかスーッと気持ちよく終わってないなって感じたときは一人反省会をよくやるんですけど、「勝負しちゃったな。なんでだろ?」って考えるとたいていは相手を平等に見ていないか、もしくは自分に余裕がない。とかとか。

あと思いつきで少し書きますけど、あんまり好かんのは「ごめんね」と「ありがとう」をどことなく「言って終わり。」みたいな「言っとけばいいか。」みたいに感じられるように使うコミュニケーション。「ごめん」っていうなら直すか反省して改善してくれ。「ありがとう」って言うんならもう少しちゃんと言ってくれ。どちらにしても気持ちを込めてくれ。うん、相手に期待しすぎかもしれん。ワイも気をつけよう。

ちなみに「あ、この人勝ちにきてるな。」って感じたときは「ふーん、そっかー…(意味ありげな沈黙)」ってやると相手がなんか感じ取ってくれるような気がします。知らんけど。我慢よくない。

最近は平和主義というよりは調和主義という言葉がおもしろいなって思っています。

そんなこんなだけど、だいたいいつもいい感じ。

自由ってなんなんじゃろか

やっぱりこうして文字にして、思考回路をスッキリさせることでなんか次に進める気がしてる。進化深化。出して空いて生まれる。ぐるぐる循環。

不思議なもんですよ。「投稿」ってボタンを押した瞬間に「世に放たれた」感覚を得られて、ちゃんと外に出した感に包まれるのです。表現したったわーってね。

体験とかから感じたことや考えたことはなるべく新鮮なうちに出していった方がいいと思っています。感情はナマモノ。新鮮なうちに。

◆ 近況とか ◆

3月から平日昼間の普通の仕事に変わり、変わりゆく環境と心境に少しずつ慣れていってる。

環境が変わればルールも変わり、様々な形を変えて束縛はされるもの。自由度が低いというのか、束縛度が高いといえばいいのか、表現はともかくガチガチなのはとても苦手。

とはいえ、今の会社は月金週5で10時~19時という時間においては拘束されるものの、うちは昼飯の時間はざっくりだし(最高)たばこも好きに行けばいいし(やめなきゃ)、水とお茶は飲み放題だし。たまらん。仕事もめちゃめちゃばたばたしてる感じはない。

中小企業というのもあってか、わりとゆるゆる。束縛度合いが非常に低い。もちろんやるべきことはやるのが大前提だし、信頼されることは大事。仕事だもの。ちゃんとやる。

あぁ、週5で6時間か週4で8時間労働がふつうな世界があればいいのに。

◆ 自由と感じること ◆

自由だなって感じるのは、選択肢がたくさんあるときなのかもしれん。そしてそれらを選べる状態であること。選べるかどうかは時間とかお金とか健康面とか、気持ちとか在り方によって変わると思うし、もちろんどれが正解なんてのもない。

「自由」ということについて考えるきっかけになったのは、今の仕事の通勤方法のこと。このことでかなり「自由って壮大なものばかりではなくて、日常の中でもたくさんあるんだなー。」と感じた。うちから会社まで電車で約35分、歩きで40分ちょい、チャリで20分くらい。今のわいワイはどれでも選べる。

メインに選んだのは歩き。40分くらいならいける。一時間超えるとしんどい。理由はいろいろあるけど、満員電車嫌い。あとマナーの悪い人がたくさん目に付くのがいや。もちろん歩きのデメリットもある。

んで、チャリはちょっとギアの調子悪いし、運動はなるべく取り入れときたいから歩きを選んだ。道を少し変えればいろんな発見ができるし、空の下でマイペースにてくてくてくてく歩いていけるのは結構楽しい。飽きるまではやるでしょう。

選べるんだから、寒い時とか雨の時は電車にするし、自分の状態でどんなふうに通勤してもいい。うん、割と自由。

◆ 束縛の中の自由の範囲 ◆

どのポイントで自由と束縛のバランスをとっていくのか。基本的には自由であるほどいいんだけど、ワイの場合、今は束縛度が多少高くてもいいみたい。その中で自由にできる範囲があって「自由だな」って思えたら。

あと思考の柔軟性も大事。基本土日祝休みなのでどこ行くにしても人多いし、旅や旅行も混むし高いし。一泊二日程度が限界かなーとか思ってたし海外旅行も厳しいなーとか思ってた。

でも「じゃあ今の生活リズムの中でどうやったら楽しめるか。」と考えたのです。そしたら、時間が限られた中であっても、弾丸トリップならできるやん!と気づいたのです。一泊二日とかでプラッとただただ海外とか観光地に散歩しにいく、みたいな。

そこで日常とかけ離れた空気感とかを思いっきり感じられて、楽しめるのならば、別にただブラブラしてカフェでお茶でもしてホテルでのんびり、みたいに過ごす旅でもありじゃなかろうか。

北海道いって海鮮丼食べるだけ!とかフィリピンの海でぼーっとするだけ!とかベトナムの喧騒の中うろうろしてフォー食うだけ!とかラスベガス行ってカジノで遊ぶだけ!とか。うわ、書いてるだけでも結構楽しいぞ。ちなみに全部行ったことある場所です。

台湾でフォトジェニックな写真撮るだけとか、ドイツにソーセージとビールを楽しみに行くだけとか、アフリカのサバンナ体験したりとか、フランスの街を散策したりとか。勿体無いと感じるかもしれんけど、サクッと気軽に行くのは本当にありかもしれない。

そうなると問題はお金くらい、かな。

以前の夜勤勤務のときよりも元気な状態での自由な時間は増えるので、ほかにもやりたいことをやっていくことはできるはずなのです。

そういう楽しみ方を見つける柔軟性。「できないー!イライラ…」よりも「どうやったら楽しめるかなー。ワクワク♪」って感じ。

◆ 理想と現実のバランスをとること ◆

「やりたい!」の理想と「やる必要あり!」の現実のバランスがとれていればストレスになりにくい。理想を追いかけることと現実をちゃんと見ることのどちらにかたよりすぎててもよくない。

理想ばかり追ってるとふとしたときに「お金が…」とかなりやすいし、現実ばかり見ててもふとしたときに「しんどい…」ってなっちゃうから適度に遊んで、やりたいことをやる。いろんな意味で「遊び」は大事。心のゆとり。

大人として現実を見つめながら人生をあゆんで、少年のように理想を追いかけ続ける。ワイの特性とか在り方としての、相反する二極性の中でのバランスのとりかたのお話はまた別で書きたいな。思っていた以上にいろんな事柄でこのバランスの話はつながってたのです。

◆ 今思う、自由とは ◆

そういえば、一時期とはいえ週3勤務と物販業で生活できて、時間の自由度を跳ね上げることができたのはすごくいい体験だった。バランス崩して継続はできなかったものの、自分にとっての理想の通過点をちゃんと体験して実感できたから。

結局のところ自由とは、人によって様々。同じ人でも環境によってその感じ方は変わる。お金とか時間とか仕事とか場所とかいろんな面において、たくさんの選択肢がありつつそれらを選べる状態に在ることは「自由」の一つの定義なのではと思う。

一発逆転!みたいな必殺技はそんなにないし、あっても続かない。じっくりコトコトと。焦らずに理想の人生に近づけますように。

うん、日々いい感じ。

なにかの試練なのかと考えさせられる誕生日

誕生日にインフルエンザC型にかかり、なかなか粋な始まりですが、四年前の誕生日にインフルエンザにかかったときはその歳はずいぶんとぶっ飛んだ変化がありましたものです。

今年もなにか、大きな変化があるかもしれないし、どのみち変化とチャレンジの一年になります。ある意味楽しみ。

■ 35歳という年齢 ■

この年齢のことで昔思い描いてたのはたぶん、ふつうに働いてて、結婚して子供がいて、家庭を持っててとかだけれども、「もっと自由に人生楽しんでいいんだ!」と舵を切ってからまあそんな妄想もどこへやら。

昔よりは将来への不安がだいぶ小さくなったり、35歳にもなるのにまだまだエネルギーは湧きあふれでてくるもんだなぁと感じます。

■ いまの人生はベストなり ■

戻るつもりもないけど、もう戻せない人生をいつも歩んでいて、いま歩んでいる人生だからこそ出会えた人たちがたくさんいる。そして、いまの人生を歩んでるから出会えてなかった人もたくさんいると思ってる。

だからこそ、今歩んでる人生上で出会えた大事にしたい人たち、濃くつながってる人たち、ともにいる人たちはとても大事にしたいと願う。なにかしらを共有できてる時点できっと奇跡だから。

「あの出会いがあって今がある」とか「このときの縁で今こうしてる」とか「あのときあの人に救われた」いうのはどんな人生を選んだとしてもかならずある。けど、それらのことがなくても別の形でなんかターニングポイント的なものはあるはず。いかなる人生を歩んでも「あのとき人生が動いた」はあるのです。

なんといったらええのか、「今の人生だからいい」とかではなくて「どんな人生でもいいに違いない」って思ってる。「あの出会い」がなくて、その出会いがなかった人生でも別の必要な出会いがあったはずだし、喜怒哀楽を感じながら精一杯生きてるはずなのです。パラレルワールド

いろんな出来事がある中でつらいことほど「なんで起きたんだ!」ってなりやすい。たとえば恋人との別れとかも、別れたから出会った人とかつながった人もいるし、起きた出来事もあるだろうし、次の恋愛もできただろうし。別れてなかったら、という逆もしかりですけどね。

つらいことも意味がある。そのときにはたぶんわかんない。けど、あとから振り返ったときに「あの失恋はこういうことだったのかも」「あの人との別れはこのためだったのかも」と意味を与えることができて、つらいグレーな思い出が、少し彩りのある思い出に変わるものです。受け取り方次第。

そんなふうに考えてみると、この先の人生もどう転ぼうとベストなんだろうな。そのときはつらいことも、その出来事がより自分を強く成長させてくれるならば、それは意味のあるものなんじゃなかろうか。

と、心の奥でいつも感じているので、どんなつらいことでも心や頭のどこかで「この意味はなんなんだ」「なにを教えてくれようとしてるんだ」と問い続けています。つらいのはつらいけどね。人生修行。森羅万象が師匠。

■ はてさて ■

ワイのこの先の人生って、一生独身でいく人生もありうるでしょう。家庭を持つ人生もありうるでしょう。あと数年で終わる人生もありうるでしょう。元気に100歳まで生きる人生もありうるでしょう。どんな人生もありうるのではないか。

それを少しでも「こういう人生にしたい」っていう意図を持つことで、そこに向かって歩いていけると思う。独身はやだから結婚して家庭もちたいし。すぐ死ぬのも少しやだから、元気に長く生きたいし。自由に遊びたいし。

それでもなお思い通りにいかないのが人生で、そんときゃ「これも運命!」と受け入れる。しかないよねー。人生は偶然と奇跡の積み重ねでしかない。有り難や。

■ 人生おいての夢は「自由自在」 ■

いろいろな人生の実験を通して、人生の目指すところを思い描くことができるようになってきた。というより、抽象度が高かったり、実は心の奥底で想ってたことの言語化ができるようになってきた。

それは「自由自在にできる幅を広げ、この地球上で遊ぶ」ということ。

時間とかお金とか人間関係とか場所とかの選べる幅を可能な限り増やしたい。お金がないからとか時間がないからとかであきらめることを少なくしたい。お金が全てではないし、一つの道具だってのもわかっているけど、ないよりはある方が選択肢は増える。

ここをもう少し掘り下げたときに、まだ見ぬ自分の「家族」が関わってることに気づかされた。

なにかというと、「好きな人、愛する人の願いを叶えたい」ってこと。それがたぶん最高の自分の願い。それを通して好きな人、愛する人の笑顔を見続けたい。そんなあなたを見て、ワイも笑顔になるから。

そのためにも自分の夢や願いはもとより、パートナーやこどもの夢や願いを実現できたり、一緒に叶えたりするだけの経済力とか時間の自由度をもちたい。限度はありますよ。

たとえば、「ここにいきたい!」「これやりたい!」ってときに、「今からいこう!」ではないとしても「じゃあ来週行こっか。」「じゃあ来月に行こっか。」くらいのスピード感で実現できるような。

そうやって共にいろんな体験をして人生を生きていきたい。お互いやりたいこと、目指すことは違ってもいいんだ。他人だからいろいろと違って当たり前なんだ。

他人だから違うっていう前提がある上で、重なり合うとこは共感しあい、違うとこはお互いが歩み寄って妥協点を見つけたり、理解し合えばいい。その上で二人で目指したい人生をお互いが向き合いながらも、同じ方向を向いて共に歩いていきたい。

理想論ですけどね。

■ 人生は実験 ■

前にもちらっとかいたけど、ワイにとっては人生って実験をたくさんし続けてる。「みさわたく」という肉体を使って、地球上でいろんなことを試してる。実験って「実際の体験」と言う意味だけど、どちらかというと「現実の体験」の方がしっくりくるな。

心の中や腹の奥にある想いを現実に表すことで「表現」され、現実の体験を通して「実験」することでいろいろな経験と知恵を得て、「五感の情報」を通していろいろな感情を感じる。

それらの一連の流れを通して感じた感情を元にまた自分の中にある想いが刺激を受けて、新しい想いが生まれたり、洗練されたりする。

これの繰り返し。

想う。やる。できるとこまで、できるだけやる。なんか得られたり感じたりする。また想いをみつめる。こうして一歩ずつ成長してく。だから「やりたい!」はやるっきゃないし、やらずに後悔するならやって後悔する。

■ 相も変わらず ■

われながらこうもたくさんのことを考えているのか、と感心させられる。言語化や文字にするのって難しいので伝わりきらない部分もあるでしょうがね。

こうやってごちゃごちゃ考えてはいるけど、いつも終着点はシンプルに軽やかに楽しく生きてこ、なんですよ。バランスバランス。

だいたいいつもこんな感じ。

だいたいいつもいい感じ。

2019年と35歳

年の変わり目には夜も明けないうちから伊勢神宮に初詣にいってまいりました。

初詣って混み合うし、人ごみあんまり好きじゃないんですけど(笑)。オモキチメンバーで行くのが修学旅行みたいで楽しかったなぁ。

そして1月は誕生日があって、35歳になる月です。なんか節目。ワイにとっては1月って新しい年と歳の始まりで人生の過去現在未来に想いを馳せがちなのです。

◆ 抱負?的な? ◆

はい、2019年かつ35歳ですね。

昨年は調子に乗って地に足着いてなくて浮つきすぎました。ので今年は焦らず、地道に着実に地に足着けて地盤を固めてく。でもゆるゆると軽やかに。

あと、新しいモノを柔軟に受け入れていく。どうせいろんな変化とチャレンジをするから。それがまた楽しい。

いろいろなことについてつらつらと。

仕事。3月から夜勤をやめて昼の仕事に転職。経済の不安を軽く小さくする。

経済。稼ぐ。使う。大事にするけどケチらない。お金の流れをよく見る。

自分。自己観察。自分のパターンや癖を知る。心、身体、声、思考の状態に敏感になる。陰陽のリズム。感情の動き。

コミュニケーション。聞き方、聴き方、訊き方。相手を尊重し、よく観察する。誠心誠意、誠実に。発する声の状態に着目してみたい。遅速高低深浅。

人間関係。丁寧に。人に会う機会を増やす。出会い直しもしていきたいかも。いまの自分とあなたで。タイミング次第。

恋愛。人の縁を大事に。これも運と縁とタイミング。

健康。心身ともに強く。体を鍛える。リラックス。考えすぎるときは書き出す。いつもいい感じに保つ。

時間。仕事、事業、遊び、メリハリをつけて時間を大事にする。でも生き急がない。ゆるゆる。

住居。流れに身をまかせる。出るときゃ出る。居るからには楽しく過ごす。

旅。したい。海外国内。美味しいもの食べに行きたい。美しい風景とか見に行きたい。きれいな海で泳ごう。カメラをもっと使うか。

勉強。どんなことにおいても知った気にならない。自分はなにも知らないということをちゃんと知っておく。これは奥が深い。

未来。先のことはわからん。「こうしたい」という意図は持っとく。いまの積み重ね。

こんなもんかな。いろいろ考えすぎてますかね(笑)いつもこんな感じです。

人生の後半戦の40代に向けて、35歳からいろいろと変わっていくでしょう。たぶん。

◆ 生きるは実験 ◆

実験とは実際の体験。

最近ワイは人生でいろんな実験をしてるなと感じることがある。うーん、なんというか

地球って言う舞台の上で「みさわたく」の肉体を使っていろんな実際に体験をさせて、そこから得られる経験とか感情とか現実の動きを眺めている感じ。

「あー、こう動くとこうなるのね。」

「なるほど、この流れはパターンだな。」

「こうよりは、こうする方がいいのか。」

「こうしたらどうなるか、やってみよ。」

みたいな。ゲームでもやってるかのような。

やってることぜーんぶ実験。試してる。やってみんとわからんことばかりだし。だからいろんな体験をしたくて、いろんなことをやってる。

それは別に大きな成果を出すこととは限らなくて、「朝イチのコーヒー、今日は違う味にしてみよう。」「帰り道、今日はこの道にしてみよう。」みたいな、日常でもたくさん体験できることはあると思うのです。

いまこの瞬間の自分は常に最新の状態。いまの自分の頭、心、体の状態。そういう意味では、同じことをやってるようでいつも「初めて」をやってるはず。「初めて」感はわかりにくいけどね。

同じようなことの場合、その積み重ねがまたどう感じるのかは積み重ねるごとに違うだろうし、積み重ねるごとに気づくこともあるでしょうし、わからなくなっていくこともあるでしょう。人間関係なんてまさにそう。

いろんな体験があって、楽しいことはもちろん全部楽しいし、つらいこともその体験ができたことをのちのち楽しめる。もちろん最中はつらいよ。だとしても、どこかで「へへ…なかなかおもしれぇ体験できとるじゃねぇか…」とか思ってる。

あと自分では割とふつうだと思ってたけど、変わり者の集まりのオモキチの中でもどうやらワイは一番変わってるらしい。なんかうれしい(笑)

うんうん、こんなんだけどだいたいいつもなんかいい感じに生きております。

六根清浄!

不純だけど純粋な気づき

わたくしはこの世界の情報を感じるとるときに耳が難聴で弱い分、どうやら目をよく使います。

たとえば人混み歩くときとか街中歩いてて、めっちゃ目でいろんなモノを見るんです。危険察知のためにも。

その際は、美人好きなので目ざとく美人を見つけたりします。おっ!きれい!美しい!ってね。不純!

まぁ人に限らず「美しい」モノが好きなんですよ。許して。
で、思ったのが、世の中かわいい人とか美人さんはたくさんいるんだなって。顔立ちとか姿勢とか所作とか。

大阪の街中とか人の多いところとか。隣の芝生は青い効果かもしれませんが福岡行ったときとかも、まぁ美人さんの多いこと。

ほんで、どんな人よりも、魅力的ですてきな人とかすごい人って必ずいるんですよね。上を見ればキリがない。でも縁がなくてつながらない人もたくさんいるんですよね。

なにが言いたいかって

「あなたより魅力的な人はたくさんいるだろうけど、でもこうしてあなたとの縁があって今こうしてあなたと出会えてる。だからこそ、この縁を大事にしたい。」

と思ったのです。

と同時に

「世の中には自分より魅力的な人はたくさんいる。でもこうして出会ってくれてつながってくれているこの縁とあなた自身に対して本当に有り難い気持ちです。」

とも思いました。

とはいえ会う人全員大事にするのは無理ですね(笑)でもどこか心の奥底では大事にしたいなって思ってる。けど表にはあまり出さないのがわたくし。

まあなにかのタイミングとか相性とか気が合う合わないとかで離れる縁もたくさんあるでしょうな。

一緒にいてしんどくなるとか、攻撃されるとか、尊重し合えないとか、礼に欠くとか、そういう人はさすがに切ることもあるでしょう。うん、たまーにはあるよ。

でも今離れてる人、疎遠になってる人みんなが縁が切れたわけではないことも確かです。地球のどこかで共に生きてるし、また出会うこともあるでしょう。

すべては運と縁とタイミング。

ちょっと不純な内容から始まりましたが、縁そのものは純粋に大事にしたいと思ってますよってことです。

つながっている縁、ありがたし。

いま離れている縁、また会うさ。

だいじにしたい縁、去りがたし。

こんなことばっか考えてる変なやつですけど2019年もよろしくお願いします。

2018年と今とこれから

あと少しで年が変わることだし、よくある振り返りとかこれからのこととかをまとめがてら書いてみましょうか。

■  2018年  ■

今年は相変わらずのチャレンジの一年。仕事面も恋愛面もこの一年でいろいろありました。
物販事業の浮き沈みと立て直し
恋愛面は実らず終わりを告げた
本業の夜勤で身体が疲労困ぱい

あとは

オモキチの住民が入れ替わったり
時間の自由度を上げる体験ができたり(一時期週3勤務)
Tシャツ刷ってボクシング体験して素潜りして
オモキチ一周年BBQしてオモキチクリパもして
みんなで歌(レゲエ)を作って発表して
海外に遊びにも行って帰国後体調崩したり
大阪で女の子とデートしたり
なんか家出してみたり
己をより知れたりタバコもやめたり

なんでしょうね、イメージですけど
いろいろと手のひらで掴もうとして、いろいろとこぼれ落ちてつかめなかったものも多くて、でも確実にその痕跡や感触は手のひらに残っている。

「やったぜ!結果出たぜ!」ではなく、少し儚く「うん。よくやったね。」というねぎらいの感じ。かけっこでぜんぜんうまく走れなくて泣く少年を慰めるような。やったことは経験が残るし無駄なことはないなぁ。

チャレンジがやっぱ好きみたいで初めてのことも多くて「今年もいろいろやったな。」って感覚が楽しい。

物販事業からも恋愛からもたくさんのことを学べた。

■ 来年2019年は? ■

2019年はなにをやろうか。

仕事は3月から転職して昼の仕事になります。
物販事業は立て直しを進めてく。
住処はまだ変わらないかな。出てく理由がないので。
PC新しくしたい。いっぱい遊ぼう。
恋愛面は知らね。縁があれば。

また最近もいろいろと湧いているので、折を見てブログにせっせと残してみようと思います。

自分の状態と人生の流れを感じながら流れのままに。

■ お ま け ■

手相鑑定で言われたことって面白いですね。

35歳までは基礎づくりで35〜42歳が練習期間で42歳から人生の後半戦。この時期は、定まらない、決まったことをしない。初志貫徹とかしなくていい時期。そもそもじっとしていたいというのはないタイプ。

恋愛のも面白いですよ。

『34歳、36歳で恋があります。』と言われてた。
2019年1月で35歳になります。

うん、終わりを告げた恋は出会ったのは去年(33歳)ですが、「好きだ」となったのは今年、34歳になってからですね。

次の恋愛が新しい出会いなのか、出会い直しをするのか。ま、縁があれば。

 

2018年もここ日本の大阪で楽しく過ごせました。ありがとうございました。来年も楽しく過ごしていこう

うんうん、だいたいなんかいつもいい感じ。

「気」を使いたい(単語として)

「余裕と気配り」のことからいろいろと気にまつわる表現が気になったのです。

なにかを感じたり湧いてきたりするのはたいていなにかと出会ったときが多いと思う。人といたり、人と会話をしたり、外に出かけたりしたときほどに新しいことに出会って刺激を受ける。

そして、なにかしら感情の動きがあるからこそなにか感じるものがあったり、なにかが湧いてくる。

ひとりでいたり、家に引きこもってたりして変化の幅が少ないことが多いゆえに、少し出かけて人と会うだけでも大いに刺激になるものです。外にでなきゃだけどねぇ。気が乗らんねぇ。

ちなみにこの先の「気」に関する表現は、単語そのままよりはたとえば「気配り→気を配っている」という言葉の意味として「気」の動きをイメージして読む方がおもしろいかもしれませんね。わかりにくかったらすまん。あえてめっちゃ「気」の表現使います。

余裕と気配り

自分で言うのもなんですが、わりと気配りはできる方だと思っていたけど、余裕がないと気配り、気遣い、心配りはなかなかできないものだなぁと思ったのです。

相手によるか。気のしれた相手ならお互いの気を知ってるからこそあんまり気を使わずに自然体でいやすくなるんだろうな。身構えて気を張る必要もないし、変な気を回さなくてもいい。「気心の知れた」ってやつですね。

そして気の合う人は居心地がよい。だって「気」が合ってるんだし。その上で、無理なくお互いに気遣い気配りができるんだと思う。

これが気が合わない相手で、一緒にいるのが気の進まない相手だと、気を張ってしまって妙に気を使ってしまう。気が進まないので、気が乗ってこないし、結果、気を使いすぎて気疲れする。気は有限なり。

うん、気の表現が多すぎて読むのに疲れるな。ちょっと気の利かない文章表現だなぁ。

「気」はあったり、なったり忙しいな

異性に対して「気がある」っていうけど、自分の気が相手にある状態で、すなわち興味関心が相手にあるから「好意がある」って解釈なのでしょう。

これまた、気のある相手だと、なんだか気配りとは少し「気の置く位置」が違う気がするのです。なんとなくなんでうまく説明できませんが。

相手の価値観とか考えとか趣味嗜好、好きなモノコト、嫌いなモノコトなどなど相手のことをもっと知りたいと思う気があるんですね。異性としてだったり人間としてもだったり、相手が「気になる」ってことですね。

たぶんその「知りたい!」という気持ちが強くて、そこに気を回しすぎると、気配りするところへ気が回りにくくなるんだろうな。変に考えすぎてしまったりね。

うまく気が回せてなかったかもしれないなと感じたので、分析してみたまでで、相手がどうとらえてくれてるのかはわかりません。変な気を使っていたわけではないんだけども。気を悪くしてることはないと思いますが。

少なくとも気が合うなって思うからこそ、縁があってつながって気のしれた関係になったり、気のある相手になったり、気の許せる関係になったりするんですね。

好きな理由を説明できないという「だって好きなんだもん。理由なんて知らんよ。」ってのも「気」というものを説明しづらいのと関係してるのかな。それって雰囲「気」とかだったりしますもの。

ちなみに、「○○だから」とかいう条件とかの好きという気持ちは、その○○がなくなったり変わったらどうなるんだろうって思う。全くないわけではないけど、○○だからってのばっかりだと他にもいるじゃん、とかなりそう。

たとえばね、背が高いから、笑顔がかわいいから、しっかりしてるからとかだと、その人じゃなくてもいるじゃんってなりそう。

だったら理由のない好き、「だって好きなんだもん」のほうが長く続く気がするし、さらにいうと相手をいいとこも悪いとこも知った上で「あなただから好き」ってのが最強な気がする。気のせいかもしれんけど。

まとめ的な?

「気」にまつわる表現を意識的に使いながら表現してるとおもしろいなぁ。

目に見えないものも結構おもしろいなってことです。知らんけど。