エゲツナク、ブットビタイ

無難に生きてきた。もっと自由に生きていいと知った。ぶっとんでみたい。ぶっとぶまでのリアルな軌跡。

なにかの試練なのかと考えさせられる誕生日

誕生日にインフルエンザC型にかかり、なかなか粋な始まりですが、四年前の誕生日にインフルエンザにかかったときはその歳はずいぶんとぶっ飛んだ変化がありましたものです。

今年もなにか、大きな変化があるかもしれないし、どのみち変化とチャレンジの一年になります。ある意味楽しみ。

■ 35歳という年齢 ■

この年齢のことで昔思い描いてたのはたぶん、ふつうに働いてて、結婚して子供がいて、家庭を持っててとかだけれども、「もっと自由に人生楽しんでいいんだ!」と舵を切ってからまあそんな妄想もどこへやら。

昔よりは将来への不安がだいぶ小さくなったり、35歳にもなるのにまだまだエネルギーは湧きあふれでてくるもんだなぁと感じます。

■ いまの人生はベストなり ■

戻るつもりもないけど、もう戻せない人生をいつも歩んでいて、いま歩んでいる人生だからこそ出会えた人たちがたくさんいる。そして、いまの人生を歩んでるから出会えてなかった人もたくさんいると思ってる。

だからこそ、今歩んでる人生上で出会えた大事にしたい人たち、濃くつながってる人たち、ともにいる人たちはとても大事にしたいと願う。なにかしらを共有できてる時点できっと奇跡だから。

「あの出会いがあって今がある」とか「このときの縁で今こうしてる」とか「あのときあの人に救われた」いうのはどんな人生を選んだとしてもかならずある。けど、それらのことがなくても別の形でなんかターニングポイント的なものはあるはず。いかなる人生を歩んでも「あのとき人生が動いた」はあるのです。

なんといったらええのか、「今の人生だからいい」とかではなくて「どんな人生でもいいに違いない」って思ってる。「あの出会い」がなくて、その出会いがなかった人生でも別の必要な出会いがあったはずだし、喜怒哀楽を感じながら精一杯生きてるはずなのです。パラレルワールド

いろんな出来事がある中でつらいことほど「なんで起きたんだ!」ってなりやすい。たとえば恋人との別れとかも、別れたから出会った人とかつながった人もいるし、起きた出来事もあるだろうし、次の恋愛もできただろうし。別れてなかったら、という逆もしかりですけどね。

つらいことも意味がある。そのときにはたぶんわかんない。けど、あとから振り返ったときに「あの失恋はこういうことだったのかも」「あの人との別れはこのためだったのかも」と意味を与えることができて、つらいグレーな思い出が、少し彩りのある思い出に変わるものです。受け取り方次第。

そんなふうに考えてみると、この先の人生もどう転ぼうとベストなんだろうな。そのときはつらいことも、その出来事がより自分を強く成長させてくれるならば、それは意味のあるものなんじゃなかろうか。

と、心の奥でいつも感じているので、どんなつらいことでも心や頭のどこかで「この意味はなんなんだ」「なにを教えてくれようとしてるんだ」と問い続けています。つらいのはつらいけどね。人生修行。森羅万象が師匠。

■ はてさて ■

ワイのこの先の人生って、一生独身でいく人生もありうるでしょう。家庭を持つ人生もありうるでしょう。あと数年で終わる人生もありうるでしょう。元気に100歳まで生きる人生もありうるでしょう。どんな人生もありうるのではないか。

それを少しでも「こういう人生にしたい」っていう意図を持つことで、そこに向かって歩いていけると思う。独身はやだから結婚して家庭もちたいし。すぐ死ぬのも少しやだから、元気に長く生きたいし。自由に遊びたいし。

それでもなお思い通りにいかないのが人生で、そんときゃ「これも運命!」と受け入れる。しかないよねー。人生は偶然と奇跡の積み重ねでしかない。有り難や。

■ 人生おいての夢は「自由自在」 ■

いろいろな人生の実験を通して、人生の目指すところを思い描くことができるようになってきた。というより、抽象度が高かったり、実は心の奥底で想ってたことの言語化ができるようになってきた。

それは「自由自在にできる幅を広げ、この地球上で遊ぶ」ということ。

時間とかお金とか人間関係とか場所とかの選べる幅を可能な限り増やしたい。お金がないからとか時間がないからとかであきらめることを少なくしたい。お金が全てではないし、一つの道具だってのもわかっているけど、ないよりはある方が選択肢は増える。

ここをもう少し掘り下げたときに、まだ見ぬ自分の「家族」が関わってることに気づかされた。

なにかというと、「好きな人、愛する人の願いを叶えたい」ってこと。それがたぶん最高の自分の願い。それを通して好きな人、愛する人の笑顔を見続けたい。そんなあなたを見て、ワイも笑顔になるから。

そのためにも自分の夢や願いはもとより、パートナーやこどもの夢や願いを実現できたり、一緒に叶えたりするだけの経済力とか時間の自由度をもちたい。限度はありますよ。

たとえば、「ここにいきたい!」「これやりたい!」ってときに、「今からいこう!」ではないとしても「じゃあ来週行こっか。」「じゃあ来月に行こっか。」くらいのスピード感で実現できるような。

そうやって共にいろんな体験をして人生を生きていきたい。お互いやりたいこと、目指すことは違ってもいいんだ。他人だからいろいろと違って当たり前なんだ。

他人だから違うっていう前提がある上で、重なり合うとこは共感しあい、違うとこはお互いが歩み寄って妥協点を見つけたり、理解し合えばいい。その上で二人で目指したい人生をお互いが向き合いながらも、同じ方向を向いて共に歩いていきたい。

理想論ですけどね。

■ 人生は実験 ■

前にもちらっとかいたけど、ワイにとっては人生って実験をたくさんし続けてる。「みさわたく」という肉体を使って、地球上でいろんなことを試してる。実験って「実際の体験」と言う意味だけど、どちらかというと「現実の体験」の方がしっくりくるな。

心の中や腹の奥にある想いを現実に表すことで「表現」され、現実の体験を通して「実験」することでいろいろな経験と知恵を得て、「五感の情報」を通していろいろな感情を感じる。

それらの一連の流れを通して感じた感情を元にまた自分の中にある想いが刺激を受けて、新しい想いが生まれたり、洗練されたりする。

これの繰り返し。

想う。やる。できるとこまで、できるだけやる。なんか得られたり感じたりする。また想いをみつめる。こうして一歩ずつ成長してく。だから「やりたい!」はやるっきゃないし、やらずに後悔するならやって後悔する。

■ 相も変わらず ■

われながらこうもたくさんのことを考えているのか、と感心させられる。言語化や文字にするのって難しいので伝わりきらない部分もあるでしょうがね。

こうやってごちゃごちゃ考えてはいるけど、いつも終着点はシンプルに軽やかに楽しく生きてこ、なんですよ。バランスバランス。

だいたいいつもこんな感じ。

だいたいいつもいい感じ。

2019年と35歳

年の変わり目には夜も明けないうちから伊勢神宮に初詣にいってまいりました。

初詣って混み合うし、人ごみあんまり好きじゃないんですけど(笑)。オモキチメンバーで行くのが修学旅行みたいで楽しかったなぁ。

そして1月は誕生日があって、35歳になる月です。なんか節目。ワイにとっては1月って新しい年と歳の始まりで人生の過去現在未来に想いを馳せがちなのです。

◆ 抱負?的な? ◆

はい、2019年かつ35歳ですね。

昨年は調子に乗って地に足着いてなくて浮つきすぎました。ので今年は焦らず、地道に着実に地に足着けて地盤を固めてく。でもゆるゆると軽やかに。

あと、新しいモノを柔軟に受け入れていく。どうせいろんな変化とチャレンジをするから。それがまた楽しい。

いろいろなことについてつらつらと。

仕事。3月から夜勤をやめて昼の仕事に転職。経済の不安を軽く小さくする。

経済。稼ぐ。使う。大事にするけどケチらない。お金の流れをよく見る。

自分。自己観察。自分のパターンや癖を知る。心、身体、声、思考の状態に敏感になる。陰陽のリズム。感情の動き。

コミュニケーション。聞き方、聴き方、訊き方。相手を尊重し、よく観察する。誠心誠意、誠実に。発する声の状態に着目してみたい。遅速高低深浅。

人間関係。丁寧に。人に会う機会を増やす。出会い直しもしていきたいかも。いまの自分とあなたで。タイミング次第。

恋愛。人の縁を大事に。これも運と縁とタイミング。

健康。心身ともに強く。体を鍛える。リラックス。考えすぎるときは書き出す。いつもいい感じに保つ。

時間。仕事、事業、遊び、メリハリをつけて時間を大事にする。でも生き急がない。ゆるゆる。

住居。流れに身をまかせる。出るときゃ出る。居るからには楽しく過ごす。

旅。したい。海外国内。美味しいもの食べに行きたい。美しい風景とか見に行きたい。きれいな海で泳ごう。カメラをもっと使うか。

勉強。どんなことにおいても知った気にならない。自分はなにも知らないということをちゃんと知っておく。これは奥が深い。

未来。先のことはわからん。「こうしたい」という意図は持っとく。いまの積み重ね。

こんなもんかな。いろいろ考えすぎてますかね(笑)いつもこんな感じです。

人生の後半戦の40代に向けて、35歳からいろいろと変わっていくでしょう。たぶん。

◆ 生きるは実験 ◆

実験とは実際の体験。

最近ワイは人生でいろんな実験をしてるなと感じることがある。うーん、なんというか

地球って言う舞台の上で「みさわたく」の肉体を使っていろんな実際に体験をさせて、そこから得られる経験とか感情とか現実の動きを眺めている感じ。

「あー、こう動くとこうなるのね。」

「なるほど、この流れはパターンだな。」

「こうよりは、こうする方がいいのか。」

「こうしたらどうなるか、やってみよ。」

みたいな。ゲームでもやってるかのような。

やってることぜーんぶ実験。試してる。やってみんとわからんことばかりだし。だからいろんな体験をしたくて、いろんなことをやってる。

それは別に大きな成果を出すこととは限らなくて、「朝イチのコーヒー、今日は違う味にしてみよう。」「帰り道、今日はこの道にしてみよう。」みたいな、日常でもたくさん体験できることはあると思うのです。

いまこの瞬間の自分は常に最新の状態。いまの自分の頭、心、体の状態。そういう意味では、同じことをやってるようでいつも「初めて」をやってるはず。「初めて」感はわかりにくいけどね。

同じようなことの場合、その積み重ねがまたどう感じるのかは積み重ねるごとに違うだろうし、積み重ねるごとに気づくこともあるでしょうし、わからなくなっていくこともあるでしょう。人間関係なんてまさにそう。

いろんな体験があって、楽しいことはもちろん全部楽しいし、つらいこともその体験ができたことをのちのち楽しめる。もちろん最中はつらいよ。だとしても、どこかで「へへ…なかなかおもしれぇ体験できとるじゃねぇか…」とか思ってる。

あと自分では割とふつうだと思ってたけど、変わり者の集まりのオモキチの中でもどうやらワイは一番変わってるらしい。なんかうれしい(笑)

うんうん、こんなんだけどだいたいいつもなんかいい感じに生きております。

六根清浄!

不純だけど純粋な気づき

わたくしはこの世界の情報を感じるとるときに耳が難聴で弱い分、どうやら目をよく使います。

たとえば人混み歩くときとか街中歩いてて、めっちゃ目でいろんなモノを見るんです。危険察知のためにも。

その際は、美人好きなので目ざとく美人を見つけたりします。おっ!きれい!美しい!ってね。不純!

まぁ人に限らず「美しい」モノが好きなんですよ。許して。
で、思ったのが、世の中かわいい人とか美人さんはたくさんいるんだなって。顔立ちとか姿勢とか所作とか。

大阪の街中とか人の多いところとか。隣の芝生は青い効果かもしれませんが福岡行ったときとかも、まぁ美人さんの多いこと。

ほんで、どんな人よりも、魅力的ですてきな人とかすごい人って必ずいるんですよね。上を見ればキリがない。でも縁がなくてつながらない人もたくさんいるんですよね。

なにが言いたいかって

「あなたより魅力的な人はたくさんいるだろうけど、でもこうしてあなたとの縁があって今こうしてあなたと出会えてる。だからこそ、この縁を大事にしたい。」

と思ったのです。

と同時に

「世の中には自分より魅力的な人はたくさんいる。でもこうして出会ってくれてつながってくれているこの縁とあなた自身に対して本当に有り難い気持ちです。」

とも思いました。

とはいえ会う人全員大事にするのは無理ですね(笑)でもどこか心の奥底では大事にしたいなって思ってる。けど表にはあまり出さないのがわたくし。

まあなにかのタイミングとか相性とか気が合う合わないとかで離れる縁もたくさんあるでしょうな。

一緒にいてしんどくなるとか、攻撃されるとか、尊重し合えないとか、礼に欠くとか、そういう人はさすがに切ることもあるでしょう。うん、たまーにはあるよ。

でも今離れてる人、疎遠になってる人みんなが縁が切れたわけではないことも確かです。地球のどこかで共に生きてるし、また出会うこともあるでしょう。

すべては運と縁とタイミング。

ちょっと不純な内容から始まりましたが、縁そのものは純粋に大事にしたいと思ってますよってことです。

つながっている縁、ありがたし。

いま離れている縁、また会うさ。

だいじにしたい縁、去りがたし。

こんなことばっか考えてる変なやつですけど2019年もよろしくお願いします。

2018年と今とこれから

あと少しで年が変わることだし、よくある振り返りとかこれからのこととかをまとめがてら書いてみましょうか。

■  2018年  ■

今年は相変わらずのチャレンジの一年。仕事面も恋愛面もこの一年でいろいろありました。
物販事業の浮き沈みと立て直し
恋愛面は実らず終わりを告げた
本業の夜勤で身体が疲労困ぱい

あとは

オモキチの住民が入れ替わったり
時間の自由度を上げる体験ができたり(一時期週3勤務)
Tシャツ刷ってボクシング体験して素潜りして
オモキチ一周年BBQしてオモキチクリパもして
みんなで歌(レゲエ)を作って発表して
海外に遊びにも行って帰国後体調崩したり
大阪で女の子とデートしたり
なんか家出してみたり
己をより知れたりタバコもやめたり

なんでしょうね、イメージですけど
いろいろと手のひらで掴もうとして、いろいろとこぼれ落ちてつかめなかったものも多くて、でも確実にその痕跡や感触は手のひらに残っている。

「やったぜ!結果出たぜ!」ではなく、少し儚く「うん。よくやったね。」というねぎらいの感じ。かけっこでぜんぜんうまく走れなくて泣く少年を慰めるような。やったことは経験が残るし無駄なことはないなぁ。

チャレンジがやっぱ好きみたいで初めてのことも多くて「今年もいろいろやったな。」って感覚が楽しい。

物販事業からも恋愛からもたくさんのことを学べた。

■ 来年2019年は? ■

2019年はなにをやろうか。

仕事は3月から転職して昼の仕事になります。
物販事業は立て直しを進めてく。
住処はまだ変わらないかな。出てく理由がないので。
PC新しくしたい。いっぱい遊ぼう。
恋愛面は知らね。縁があれば。

また最近もいろいろと湧いているので、折を見てブログにせっせと残してみようと思います。

自分の状態と人生の流れを感じながら流れのままに。

■ お ま け ■

手相鑑定で言われたことって面白いですね。

35歳までは基礎づくりで35〜42歳が練習期間で42歳から人生の後半戦。この時期は、定まらない、決まったことをしない。初志貫徹とかしなくていい時期。そもそもじっとしていたいというのはないタイプ。

恋愛のも面白いですよ。

『34歳、36歳で恋があります。』と言われてた。
2019年1月で35歳になります。

うん、終わりを告げた恋は出会ったのは去年(33歳)ですが、「好きだ」となったのは今年、34歳になってからですね。

次の恋愛が新しい出会いなのか、出会い直しをするのか。ま、縁があれば。

 

2018年もここ日本の大阪で楽しく過ごせました。ありがとうございました。来年も楽しく過ごしていこう

うんうん、だいたいなんかいつもいい感じ。

「気」を使いたい(単語として)

「余裕と気配り」のことからいろいろと気にまつわる表現が気になったのです。

なにかを感じたり湧いてきたりするのはたいていなにかと出会ったときが多いと思う。人といたり、人と会話をしたり、外に出かけたりしたときほどに新しいことに出会って刺激を受ける。

そして、なにかしら感情の動きがあるからこそなにか感じるものがあったり、なにかが湧いてくる。

ひとりでいたり、家に引きこもってたりして変化の幅が少ないことが多いゆえに、少し出かけて人と会うだけでも大いに刺激になるものです。外にでなきゃだけどねぇ。気が乗らんねぇ。

ちなみにこの先の「気」に関する表現は、単語そのままよりはたとえば「気配り→気を配っている」という言葉の意味として「気」の動きをイメージして読む方がおもしろいかもしれませんね。わかりにくかったらすまん。あえてめっちゃ「気」の表現使います。

余裕と気配り

自分で言うのもなんですが、わりと気配りはできる方だと思っていたけど、余裕がないと気配り、気遣い、心配りはなかなかできないものだなぁと思ったのです。

相手によるか。気のしれた相手ならお互いの気を知ってるからこそあんまり気を使わずに自然体でいやすくなるんだろうな。身構えて気を張る必要もないし、変な気を回さなくてもいい。「気心の知れた」ってやつですね。

そして気の合う人は居心地がよい。だって「気」が合ってるんだし。その上で、無理なくお互いに気遣い気配りができるんだと思う。

これが気が合わない相手で、一緒にいるのが気の進まない相手だと、気を張ってしまって妙に気を使ってしまう。気が進まないので、気が乗ってこないし、結果、気を使いすぎて気疲れする。気は有限なり。

うん、気の表現が多すぎて読むのに疲れるな。ちょっと気の利かない文章表現だなぁ。

「気」はあったり、なったり忙しいな

異性に対して「気がある」っていうけど、自分の気が相手にある状態で、すなわち興味関心が相手にあるから「好意がある」って解釈なのでしょう。

これまた、気のある相手だと、なんだか気配りとは少し「気の置く位置」が違う気がするのです。なんとなくなんでうまく説明できませんが。

相手の価値観とか考えとか趣味嗜好、好きなモノコト、嫌いなモノコトなどなど相手のことをもっと知りたいと思う気があるんですね。異性としてだったり人間としてもだったり、相手が「気になる」ってことですね。

たぶんその「知りたい!」という気持ちが強くて、そこに気を回しすぎると、気配りするところへ気が回りにくくなるんだろうな。変に考えすぎてしまったりね。

うまく気が回せてなかったかもしれないなと感じたので、分析してみたまでで、相手がどうとらえてくれてるのかはわかりません。変な気を使っていたわけではないんだけども。気を悪くしてることはないと思いますが。

少なくとも気が合うなって思うからこそ、縁があってつながって気のしれた関係になったり、気のある相手になったり、気の許せる関係になったりするんですね。

好きな理由を説明できないという「だって好きなんだもん。理由なんて知らんよ。」ってのも「気」というものを説明しづらいのと関係してるのかな。それって雰囲「気」とかだったりしますもの。

ちなみに、「○○だから」とかいう条件とかの好きという気持ちは、その○○がなくなったり変わったらどうなるんだろうって思う。全くないわけではないけど、○○だからってのばっかりだと他にもいるじゃん、とかなりそう。

たとえばね、背が高いから、笑顔がかわいいから、しっかりしてるからとかだと、その人じゃなくてもいるじゃんってなりそう。

だったら理由のない好き、「だって好きなんだもん」のほうが長く続く気がするし、さらにいうと相手をいいとこも悪いとこも知った上で「あなただから好き」ってのが最強な気がする。気のせいかもしれんけど。

まとめ的な?

「気」にまつわる表現を意識的に使いながら表現してるとおもしろいなぁ。

目に見えないものも結構おもしろいなってことです。知らんけど。

わかっちゃいるけど、やめられない【妄想のこと】

妄想にとらわれがちなのって損だなって話ですよ。

うん、自分の話なんですけどね。だれにでも多少はあるのかな。

人間関係の中で存分にはかどってしまう妄想のドラマ。そこから変な思い込みや勘違いや誤解につながることもある。勝手な推測。都合のいい解釈。

「こう思われてるだろうな…」

「たぶん、こうだろうな…」

たぶん、ワイ自身が妄想にとらわれすぎて今までにも人間関係において、たくさん損してきたこともあるんじゃないかな。それすら気づいてないこともあるだろうし。知らんけど。

ただ、妄想自体は以前よりはましになったかも。

「また妄想してるわ笑。全部作られた妄想やで!」っていう思考ができるようになったのと

結局は『直接きいてみないとわからない』ってことを知ったから。うん、当たり前なんだけれども。ちゃんときいたら勘違いや誤解が解けることも多い気がする。確認は大事。

逆もまたしかりで『言わなきゃ伝わらない』です。うん、当たり前なんだけれども。なかなか難しい。

そもそも「伝えたいのか、別に伝えなくてもいいのか」の前提もあるか。

まずは、その人と「どうしたいのか?」「どうなりたいのか?」の問いかけ。離れてもいいならそのままに。どっちでもいいならタイミング次第。いい関係を築きたいならアプローチ。

親密度によって、きけるかどうか、言えるかどうかもあるとは思います。

ワイ自身は「(究極な話)どっちでもいい」というだだっ広いグレーゾーンがあるので、そのままなにもしなかったことも。以前よりは本音を伝えられることも増えたけど、まだまだだなぁ。相手によるか。

ちなみに妄想自体は悪いわけではなくて、その泥沼に知らぬ間にはまってしまうのが怖いなぁと思うのです。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

最近どこそこに出かけた!とかこんなことあった!とかあんまりないので、こんな頭の中のことばっかり。

人とのふれあいの中で、どんどん湧いてくる時期がたまにあるので、自分が頭の中をスッキリさせたいだけ。自己満です。

人によってはおもしろくないかもね。すまんね「あ、そんな考え方もあるのかー。」と、なんか役立てばうれしいかも。

外にはあまりでないけど、内なる自分の価値観にふれたりはすることは多いかな。Inner Journeyとそうしろうさんは言ってました。

こんな日々でも楽しくすごしてます(^^)あーちょっとスッキリ。

人間関係のことで思ったこと。似た人もいるのかも知れないね。

テーマが二つ出てきた。
ひとつは友達の定義ってなんぞやか。もう一つはワイの基本スタンスについて。

たぶん友達の定義って人によって違うと思っていて、かといって「何かをしたら友達」って線引きがあるわけでもない。いきなり結論だけど、定義なんてわかんない。

友達だから何でも話せるとか、友達だから何でも許せるというのはわからんでもない。でもそれができないから友達じゃないかっていうとそうでもないでしょ。これはもはやスタンスの違い。

で、それをできないから友達じゃない、とかのたまうのであれば、「去るもの追わず」と「(究極な話)どっちでもいい」の基本スタンスを持っているので「じゃあしょうがないね」ってなる。めっちゃドライなとこがある。

たいてい本当は「さみしさ」があるくせにさ。その離れてしまう悲しみすらも自分だけで抱えようとする。あ、ガチでさみしさがないパターンもたくさんありますよ。

しょうがないっすよねって感じ

まぁしょうがないじゃん。どれだけ深く何でも話したりできるかのスピード感なんて人によって様々だし。早い段階でカラッとさらけ出す人もいれば、じわじわ少しずつさらけ出す人もいる。さらけ出さないままの人もいる。ワイはじわじわとしか出さない。

友達に話せないことを知り合いレベルの人に打ち明けられることもあるし、友達の中でも、この人にこの話題は話せるけどこの人にこの話題は出せないな、とかあってしかるべきだと思うのです。しゃーない。

「去るもの追わず」とはいえ、それが好きな人だと少し追いかけようとします。ワイのスタンスは友達と好きな異性とで違う。ただ一応、誰に対しても同じ時を過ごすなら、「せっかくのこのご縁だしなかよくやれるといいな」ってのは思ってる。

運と縁とタイミングがつながって出会い、ハプニングとフィーリングでよりわかりあえるのかな。ただただタイミングの問題で「今じゃない」なんていくらでもあるよね。だからこそ、出会った縁は奇跡的なタイミングで出会ってるわけで、基本的には大事にしたい。

心の扉

そもそもワイ自身はなかなか心開かない。小中学校時代のいじめられていたことが大きいと思うけど、「人はどうせ裏切る」「人を信頼しきれない」という考えが根深い。心の冷たい部分だな。凍ってる。

二人とかだと普通なくせに、学校だと一緒にいじめてくる。むしろ主犯。遊ぶ約束をしてもすっぽかしもあった。きつく当たられた先生もいたな。職員室とか他の先生がいるとにこにこ話しかけてくるくせに。

「人間ってなんなん?友達ってなんなん?人は信頼できん。一人で生きれるようにならねば。」ってなってた。だいぶん和らいだとは思うけど、やはり根深い。わりと器用になんでもこなせるのはここから来てるのかもね。一人で何でもできるようにならねば、っていう。

いつも警戒心というのか、どこか心の中で裏切りとか離れることに対する準備をしてる気がする。めっちゃ警戒してうなってる子犬みたいな。そんなかわいくはないか。

そりゃ相手からしてもなかなか心開きづらいよね。振り返ってみると心から信頼できたのは家族と恋人だけじゃなかろうか。あと数少ない親友かな。

「この人といると何でも気が許せて、安心できる。」
っていうパートナーを求めている気がするよ。癒されたいんだろうね。「大丈夫だよ」ってね。たぶん泣くわ。

それでも「あなたがいなきゃダメ!」というほど依存するわけではない。ともに自立した上で、それでも一緒にいたい、と思えるのは大事だと思う。

友達と思う人に対しては

でもね、多少なりともワイの基準で「トモダチ…」って思う人に対しては自己犠牲をしてまで「なんとしても可能な限りのお主の期待に応えたい」という心が働くようになっております。

そういう性質なんよね。そしてそれができなかったりすると「まだまだ拙者の修行が足らぬ」と、自分責め。「自分が未熟だから、成長して強くなればいい。」と思ってる。このあたりはも少しゆるーいスタンスでありたいな。

相手のスタンスに関係なく、でもこっちは友達だと思っている場合、何か困ったときはたぶん助けるし、そうしない理由はない。だって友達だろ。「好き」に理由がないのと一緒。「だって好きなんだもん」の感覚。

ドライといいつつも、好きな人、大事な人に対する想いは出さないだけでなかなか大きいのです。出さないから伝わらないんだけどね。勝手に想ってるよ。

共有の量が信頼の量につながる

何でも話せたり許せるのは、「信頼の深さ」なんかなぁ。それだけ信頼してるから友達だろって。それを作り上げるのは、共に過ごした時間の長さと、共に過ごした対話の深さによるんじゃないかな。

どれだけ自分を出せるのか、どんな自分を出せるのか、どれだけ自然体でいられるのかどんな自分で居られるのか。どれだけの喜びや楽しさの表に出やすい「陽」を共有できるのか。どれだけの悲しみやつらさやなかなか表に出さない「陰」を共有できるのか。

もうね、相手によりますね。基本的に弱みを見せたくないし、人前では泣きたくないし、泣かない。強がるし、カッコつけたがるし、プライドが高い。めんどくさいな自分。

ここ数年で、書き連ねたような闇(?)な自分をたくさん知った。知ったというか気づいた。まだあると思うけどね。気づいたことで「しょうがないよね、それも含めてワイだし。」ってとこと「しょうがないよね。でも対応してよりよくなれたらいいな。」ってとこも出てきた。

いろんな本質を知って、変えていけるように意識はしてるものの、人間関係とか人とのコミュニケーションって難しいなぁって思うんよ。ほんとコミュニケーションはヘタ。めちゃ不器用。

 

でもね

昔より笑顔で一緒に過ごせる人にたくさん出会えた。

時間とか場所とか「間(ま)」が空いても

まるでそれがなかったかのように再会できる人が増えた。

少しずつドライな自分に潤いが与えられ

少しずつ凍ったところが溶けてきてるのかもしれない。

少しずつ人間社会で生きていけるようになってるのかもしれない。

しらんけどね笑