エゲツナク、ブットビタイ

無難に生きてきた。もっと自由に生きていいと知った。ぶっとんでみたい。ぶっとぶまでのリアルな軌跡。

愛想と愛嬌と

最近ねー仕事も恋愛も生活もぼちぼち過ごしてますけれども、本質的に意識しているのは自分の人生の満足度をどれだけ上げられるか、ではないかなと。

自分の人生を全うしたい。楽しく生きたい。自由度は上げていきたい。みたいな。
そんな本質を大事にしつつも年齢とか仕事とかいろんな要因で価値観というのはアップデートし続ける必要はあるなと。

夢物語のような理想を見つつも、現実的な部分も見つめる。天を見上げながら、踏みしめる地をちゃんと感じるというのか、歩む一歩一歩を確かめながら歩いていくというのか。

その歩み方も、自分では良しとしてたり、自分としてはそういうもんだと思っていても、他人からの、特に近しい人が言ってくれたことによって「ちょっと違ったよね。」って気づけることというのはたくさんあるもので。

客観視ということではありますが、それでも言ってくれたことの「言わんとしていること」をちゃんと聞いておかないと、認識のズレが生まれますね。いやー、ちょっとズレてたわ。

自分という、人間という存在を「磨く」というのは本当に終わりのないことです。もちろん磨き終えたとも思ってもいないのですが、自分の中のそれなりの輝きを見ると、「なかなかいい輝きやんけ」とか「これがワイの輝き!」と感じてしまって、なかなか磨けていないアラとかは客観的に見てもらわないと気づけないもんです。

正しいと思ってることは思いこみということは大いにある。

なんだかやたらと抽象的な表現ですが、ここからはこんなことを言い出した、もうちょいと具体的な最近のことでも書いてみましょうか。

それが「気を使う」という部分のこと。

◆◆ さきに結論言っとく ◆◆

結論。無理に愛想よくしない。いつもヘラヘラ笑顔にしてなくていいんだよ、ってこと。

公私、のおもに「私」の方面で、です。仕事ではね、演じなければいけない自分もあるので愛想も必要だし、多少は我慢や偽りの自分な必要なものです。仕事の自分。えらいぞ。もちろん不愛想に過ごそうってわけでもなくて。

今から説明する『認識のズレ』に気づけたことはある意味「本来の自分自身」の一部を再発見できたと思っておる。

◆◆ 気を使わなくていいよ ◆◆

よくね、「そんな気を使わなくてもいいよ。」って言われることがあったんです。女性に、です。

ワイとしては、レディファースト的な行動とか気配りをそう言われてるのかと思ってた。

でもそれってわりと無理なくできることなので、「いうほど気ぃ使ってないよ。」って思ってたし、伝えてた。

どうやらね違うみたいで、そこじゃなくて、それは愛想良く笑ってる部分だったぽい。

「がんばんなくていいよ。自然体でいいよ。」っていわれてなんかやっとピンときた。

楽しませようとか笑わせようとかニコニコしとこうとか、確かにしてた。

本来のワイはそんなにヘラヘラしないんよ。愛想が悪いってわけじゃなくてね。じゃあなんで笑顔でいたのかって?

接客業にずっと携わってきたのと、変なプライドの高さと、人によく思われたい、嫌われたくないという。

このあたりの感情が入り混じって必要以上に「気を使っている」「がんばっている」と見えるようなのです。

不自然なんでしょうね。ワイにとっては世渡りのためのテクニック、処世術みたいなもんです。

◆◆ 愛想笑い作り笑顔の弊害か? ◆◆

たしかにね、感情が「笑」ってなってなくても、笑顔作ってる時はあるし必要な時もある。

でもそれは無理してた部分もあったと思う。よかれと思ってね。悪気はもちろんない。感じ悪いのって、いやじゃん。

笑顔でいたほうがいい印象だし、接客業で愛想笑いスキル手に入れてたし、ニコニコしてた。

でも相手に時には不自然さを感じさせてたのかもしれない。たしかにいつもニコニコしてても気持ち悪いしな。何考えてるかわからんし。

ほんでそういう不自然さが、何考えてるかわかりにくいと言われる一つの理由だと思う。よかれと思ってたんですがね。

きついこと言われたり怒られたりしても、少し笑って「ごめんね。」って。「申し訳ないな…」って思ってても、そんなシュンとした表情すら出すことがはばかられて、気持ちをごまかすために。

たぶんね、まゆげは困ってる時の形だと思う。相手にも不自然さは伝わってるはず。

いやだな思ってることを相手に伝える時とかも「変な圧が出るとやだなぁ…」と思って真顔では言わなかったり。変な雰囲気が和らげばいいなぁと思ったりしてた。

それって自然じゃないんよね。そういう不自然さが「そんな気を使わなくてもいいよ。」って言われることにつながってる。

女性はすごい。同じ笑顔でも「どんな笑顔なのか」ってのはわかるみたいですね。だから「がんばんなくていいよ。」とか言ってくれてたんだと思う。

もうね、無理に笑顔作るのやめることにした。

作るんじゃなくて、湧いてくる感情のままに笑えばいいなって。それが自然体。素直に。それは愛嬌ってやつなのかな。

それは結果的に『リラックス』の状態になるんだと思う。

◆◆ Too much ◆◆

散々ねいろんなとこで言われててね、わかってはいるんだけどね。

  過ぎたるは猶及ばざるが如し

これって、善意でもそうなんよ。良かれと思ってることね。良かれと思ってやってることも、やりすぎると相手は受け止めきれなくなる。

やりすぎってねいいことにも起こるんですね。よかれと思って「笑顔」を作りすぎたよ。ほんまの「笑」の感情があるときだけにするわ。

相手が求めてないのにアドバイスしちゃったり
必要以上にアレもコレも説明しちゃったり
よかれと思って気配りしすぎたり

相手が受け止めきれないとそれはやりすぎよな。善意の押し付け。親切の押し売り。「いや、それ今いらねーから。おいおい、勝手に善意を押し付けといて『いいことした〜』みたいに満足してんなよ。」と、ブラックタクがのたまう笑

とにかく、笑顔の安売りはしないようにする。
そのためには心から、「笑」の感情でちゃんと笑う。
でも感じ悪くならないようにする。

ワイの場合ね、振り返ってみると作り笑顔、愛想笑い多いので、やめすぎると興味わかないものや笑えないものに対して真顔でズバズバ言っちゃいそう。。。

「ちょっとわからんわ。」「なにがおもろいの?」「大変だね。」「で?」

素直に思ったこと言うのは悪いことではないけど、人の関わりにおいてはもうすこし優しい表現ができるようにしよう。

このズバズバ言っちゃいそうな部分はワイにとっての別の課題にもつながります笑

「人にかみつく」という課題。

これはまた次の機会に深掘りして見ます。

愛想笑いや作り笑いをしすぎた故に、それが自分の中で普通になっていたのだけれど、ワイのことを見てくれる人はちゃんとそれを伝えてくれた。

ある方面にやりすぎたからこそ、反対側をやってみて、いいとこでバランス取れるように、選んで使いこなせるようになる。

やはりなにごともバランスですね。いつも真ん中に。

うんうん、だいたいいつもいい感じよな。

自信ってなんなんだろ?って話です。

自信を持つとは?

自信とは自分を信じること!

多分違う。なんというか、これだけじゃない。

自分を信じることは間違いではないんだけどそれだけじゃダメだし、その本質を捉えてないとそれはモロいしまるでハリボテ。

それは「虚」です。ニセモノ。虚勢。

自信を持つ○個の方法!とか、できたことをあげる。できることをあげる。小さいことから成功体験を持つ、とかとか、こういうのも本質を捉えてないと何事も意味をなさない。

無駄とはいいません。それによって自信つく人もいるだろうからね。

◆◆ あくまでワイの話ね ◆◆

ワイの場合、いくらこういうのやっても自信つかないのです。「ナニカを成し遂げて自信を持つ」というメソッドでは結局また自信を失うことになる。

「できたから自信がついた!」だと「出来なくて自信なくなった。」ってなって、これを繰り返すと思うのです。できないことなんて無限にありますし、いたちごっこ

そんでね、「自信を持つ」ってなんなん?ってずーーーーっと思ってたわけです。

我が身を振り返っててね

自信があるってどういう状態だろうって。

自信があるときってどういう時だったんだろうって。

 

◆◆ わかった。 ◆◆

これですわ。

 「不安にとらわれてない時」

 なんかポジティブに寄りすぎると傲慢なイメージなんよ。どうしても「俺自信あるよー!どうだー!」って感じ。

実際口に出す人はいないけど、会話しててその雰囲気を出してる人とか、なんか変に「すごいでしょ!認めてー!」ってのが出てしまってる。

これはただの自信過剰です。「すこいでしょー!ほめてー!」が強すぎる。なにごともですね、「Too Much=やりすぎ」はいかんのです。

反対にネガティブに寄ると、自信持つどころか当然自信がないので、不安にまみれてる。不安から始まる行動は、あんまりいいことないよね。

 

ほんでね、本当に自信ある状態って、自然体で「よし。なんでもこいや。」って言えるときだなと。なにが起きても大丈夫ってなってんの。構えないし、リラックス。

あと人と比べることが少ないし、そこにハマらない。

「オレはオレ」の強さ。

他人をみた時も「いいなー。うらやましいなー。」てはないよね。人と比べないからそこは「いいね。すばらしいね。」って感じなんじゃないかな。「俺も素晴らしいけどね。」ともならない。自分は自分なの。ある意味自己満か笑

 

不安もあるよ。怖さもあるよ。
でも「まかせとき。」ってなってるとき。
テンションあげて「まかせとけー!!」じゃなくて。

ずーっとくよくよしてない。前を向ける。しぶとい。
立ち向かう勇気を持ってるって信じてるから。

失敗もするよ。全然できん時もあるよ。
でも「くっそ。次またやってやんよ。」って感じ。
テンションあげて「つぎつぎー!」とはちょっと違う。

ずーっとくじけっぱなしじゃない。上がってくる。しぶとい。
まだまだ成長できるって信じてるから。

こういう意味で「自分を信じる」ってのが自信があるってこと。

◆◆ なんというのか ◆◆

なんだか滲み出るものだと思うのです。語らずともわかる。余裕を感じるもの。

「自分はすごいぜ!こんな実績あるし!」っていうのとは違うんだよって話でした。

たぶんね「自信」ってもっと奥が深いものだと思うよ。

自分を信じる。そして、相手のことも信じる。世界を信じる。

他人によらず、比較せず。ブレず、いつも自分のど真ん中、今のど真ん中。中心に自分自身が在る状態。

地に足つけて、どっしりと。弱さを知り、強がらず。でも強く在ろうとする。

以上、これが正解ってわけではないのだろうけども、現時点の「今」のワイが「自信がある」について発見したことです。

ふむふむ。日々精進。
だいたいいつもいい感じよ。

人との距離感〜目の前のひとりとかコミュニティ〜

いくらいろんな経験を重ねても苦手なものは苦手。

それを克服することもときには大事だけど、受け入れてうまく使いこなすのもまた大事。

苦手なもんはしゃーない。
できんもんはしゃーない。
じゃあどうやったらうまくそれを扱えるかな?も考えたい。

人間関係はテーマがいっぱい。コミュニケーションは課題がいっぱい。

一生終わらないけど、磨きがいはある。

わたくしめ、まぁまぁなかなか心の底は明かさないのですが。心の内も幅と深さがあるので、どこまでの幅とどれだけの深みまで明かせるかは人による。

思ってることを伝えることは心の内を明かすひとつのやり方だと思うのです。でも、そもそもいいたいこと思ってること伝えること自体が得意じゃないんよね。我慢しちゃう。消えることはなく、自分の中に溜まるだけなのにね。

なんなら「あ、これは自分がまだ未熟だから気になるんだな。もっと人間的に成長して気にならないくらい器がおっきくならねば。まだまだ修行が足りん。」と武士のような心境。

伝えること自体をあまりやれないので、当然伝え方もまだまだ未熟。本音をなかなか言えない性質だし、いざ言うときは伝え方が上手じゃないので誤解も招きかねない。

上手に伝えようとかうまく伝えようとかではなくて、思ったことを感情的にならずに落ち着いて伝えるようにしている。伝えるトーンとかスピードとか、言葉選びとか。難しいものです。

あとは前提を置くことをなるべくやるようにしている。この前提は、一つの本音のカタチだから。

「ケンカを売りたいわけじゃないんよ。」
「別れ話をしたいわけじゃないんよ。向き合いたいから話すね。」
「そんなつもりはないけど嫌な気持ちにさせてしまうかもしれない。ごめんね。」
「嫌われてもいいくらいに思っている。それだけ本気じゃけん。」
「勘違いかもしれないけど、気になるから伝えるね。気に障ったらごめん。」

とはいえなかなかうまくできんもんです。気ぃ使いすぎなんかな。

◆ 気をつかうとこと気をつかわないとこと ◆

先日会社の決算報告会という名の飲み会がありました。決算報告とか社員の挨拶とかわいわいと飲み食べしてて、二次会にカラオケ行ったりしたわけですね。

金曜夜やし疲労も溜まってたし、なかなか元気にはいられなかった。初めは笑ったりノリよく過ごしてたけど、だんだん疲れてきて、それでも気を遣ってしまって「楽しそう」にしてたのです。

カラオケの二次会で帰りたかったけど、少し前に会社のイベントごとの幹事役に任命されているので帰るわけにいかず。歌とか話を振られたけれど、「もう無理。これ以上は気を遣えん。」と思って「すいません、シンプルに疲労で元気ないです〜。」と言えて、みんながどう思ったかは別として、理解はしてくれたようでした。

我が社は大抵こうなると朝までコースなので予定があるということで終電で帰らせてもらいました。

そのとき一緒のタイミングで帰った先輩がいるのですがこの人は絶対残らず帰る。

結婚してるのもあると思うのですが、「だって、おもんないもん。」っておっしゃる。「オールとかしとっても、だんだん何がおもろいかわからんくなってくる。次の日しんどだけじゃし。」とのこと。

なんならこの先輩うちのトップと同じ学校行ってて同級生で何十年の付き合いもある。会社で浮いてるわけでもなくむしろ仲良し。そんな人のこの「おもんないもん。」発言を聞けて心底ホッとしました。

「あ、自由なスタンスでええんか。」と。

気を遣って残る必要もないし、元気な振りする必要もないし、むしろ「終電までには帰るキャラ」になると非常に楽ですね笑

もちろん、楽しくなさそうにするのはさすがに無粋というものです。もう少し気を使いすぎず過ごすこと、そして仕事をしっかりやって信頼を得て認めてもらう。

歓迎されてるからといって、その期待に応えようとしすぎず、自分で自分自身の距離感を調整すればいい。どっちみち今の会社は楽しいし、いい人ばかりなので、どうせなら楽しく心地よく過ごそう。

そう感じました。

◆ コミュニティへの帰属意識 ◆

なんでも気さくに相談や会話ができるいわゆる「風通しのいい職場」のうちの会社。ワイが入る前の社員の人たちは地元が一緒だったり友達だったり以前に同僚だったり兄弟だったり。もともとのつながってる人たちで構成されている。

仲もいいしまさに「ファミリー」って感じ。

それぞれがきちんと役割分担されてて、なぁなぁになりすぎない関係性で会社は大きくなっている。これはほんまにすごいことだなぁと思うんですね。

そこに紹介で入ったとはいえ初めて直接の繋がりのないワイの入社。ありがたいことに、ファミリーとその他、ということはまったく感じず少しずつ打ち解けていってる。ファミリーのような輪に歓迎されるのはありがたく、のびのびと楽しく働かせてもらってる。

ただね、もともとワイはコミュニティに対して「帰属意識」ってのがなくて、それを持てないのか持たないのかは知らんけど。苦手。たぶん帰属意識を持ちたくないタイプ。日々の生活がひとつの狭い社会だけになるのも好まない。

コミュニティに属するのって制限される感があるのです。「このイベント、くるよね?」みたいな。声かかるとかは嬉しいんですよ。でもそこにフワッとある「きてくれる期待」に敏感すぎて、断るのにエネルギーめっちゃ使うんですね。

コミュニティに属するとしても、いつでも出れるし入れる自由がないと息苦しくなる。その自由は自分で選ぶものなのですが「自由でいてもなんの気も使わない」くらいのやわらかさを求めてるのだと思います。わたくし、そんな面倒臭いところも、多いにあるのです。

◆ ひとりとみんな ◆

日々、会社と家の往復。関わるのは会社の人ばかり。さらに会社と家がめっちゃ近い、とかは自分にとって苦痛。たぶんしょっちゅう旅行とか旅をしないと病む笑

狭い輪の中でいると、窮屈さを感じてたまに輪をはみ出して別世界をみたくなるし、「みんなと同じ価値観」とか「みんな同じだね」に染まるのが苦手なのでひとりになりたくなる。

かといって、ひとりで居続けると孤独の世界に陥るし、ひとりでいなけりゃ出会えたはずの、世界が広がるようなおもしろいナニカとの出会いやふれあいがなくなるのも惜しい。

でもこのみんなと一緒にいることと、ひとりの世界に入り込むことは、スパンや程度は様々だけど行き来はやめない。だからときには急にドライな部分がでて「あ、今ひとり期間だから、関わらないで。」くらいに壁を作る。

むしろワイの場合はそれを意図的にやることによって、より進化と深化をしていく、と思ってる。

もっといろんな人と関わりながらいろんな世界を見ながら生きていきたい。地球のことを全部知るのは無理だけど、知ることができない99%知らないことってわかっているからこそたくさんのことを知りたい。無知の知

好奇心が旺盛なのと、変化しなさすぎる日常は飽きやすい性質なのです。

ただね、ワイそこまでめちゃめちゃに人間の輪を広げたいわけじゃない。「おもろいな!」って人と関わっていたい。あとは職場とかで関わりが濃くなっていく人とだけでいい。ただし「おもろいな!」って感じる人だけね笑

そして最近思ったのは、ヒトは嫌いだけど人間は好き。

ヒトってね、要するに何にも知らん関わりのないそこらへんにいる物体。って感じ。
ひどい表現だわ。

それが「人間」になるときって、心がなにかしらの形で触れ合って感情が動いた時じゃないかと思うのです。イベントとかにただ参加しているヒト同士が、会話を通して人間同士の関わりになる、みたいな。

だからヒトはどうでもいいけど、人間は好き。ただし「おもろいな!」って人ね。

◆ しめていこう ◆

人間関係においては、自分をどれだけ確立できるのかによって心地よさは変わりますね。いわゆる「自立」ですかね。まずは相手やコミュニティの信頼を得る。そのうえで向き合う。そして調整していく。

私はどういう人間で、どう在りたいのか。どう関わっておきたいのか。う〜ん。結局、自分を知る、相手を知る、理解共感し合い、歩み寄る。そして自分を大事にする。相手も大事にする。相手の大事なものを大事にする、か。

頭の中にあることと現実世界の人との関わりの中で動く感情がいろいろ化学反応を起こして湧いてきたので書いてみた。頭の整理整頓ですね。ちょっと暇なんだと思う笑。

まだまだ色んなことを考察していきたい。

うんうん、だいたいいつもいい感じ。

とにもかくにも自然体にすごす

最近は流れがええなって部分が多くて、でも少し滞る部分もあって。少し滞る部分がブレーキとなって、浮足立たないようにしてくれているように感じるのと同時に、まだまだ自分の器はそんなものか、とも思う。

なんか年明けくらいから妙に肩の力の抜けた「自然体」で過ごせている感じが強いのです。たぶん、他人との比較をとにかく減らし、ブラックな部分を少し出すことを練習しながら最近は生きてるからだろうか。GWに名古屋に帰り、大学からの十数年来のツレに会ってたくさんたくさん会話ができたのはとても実りある時間だった。自分を知る手段は感情の深堀であること、他人と勝負しないこと、とか話ししてたのです。うーん、深い。

オープンに生きるのってこんなにも楽なのかってのを最近感じてる。仕事先では副業で物販事業をやってることも、昨年失敗して立て直していることもシェアハウス住んでることとかも色々オープンに包み隠さず話ししてる。あり方というのか、キャラというのか、そういう部分も割とオープンに、ある意味「自分らしく」過ごせてると思う。まあもちろん相手は選ぶよ。

■ ■ ブラックなタク ■ ■

ブラックな部分ってもちろん元々あるんだけども、どうも「いい人ぶる」とか「いい大人」としてカッコつけて生きようとしている節はある。だからブラックなとこってほとんど表に出したりしなかったのです。だってよく思われたいじゃん。でもそう思うこともだいぶ減らした。聖人君子ではないので完全になくすのは無理。とはいえ多少は必要だからこそ、減らしたんよね。

「みんなに嫌われないようにしよ。」よりも「全員に好かれるの無理。だったらワイが全員を好きでいるのも無理。」ってな具合。別にさ、職場とかのような同じ空間にいるからって好きでなきゃいけない理由はないし、距離感を近づけなきゃいけないってこともない。必要な距離感を保つのも大事。でも自分の中では「あくまで今はね。この先未来永劫このままとは限りません。」っていう特別ルールみたいなのをつくるあたりがワイの甘さ。甘い優しさと表現しよう笑

すごい余談ですけど、過去にも「なんか好きじゃないかも。一緒にいておもんない。」って人と何年かして会う機会があって、相手が何も変わっていなくて結局おもんないってなって「もう会うことはなかろう。達者でな。」ってなった人もいる。おもんないというか、心地よくないというか。無理に会おうとしなくてもいいかなって感じ。ドライだね笑。まぁ、ワイだって人間だもの。

ブラックな部分を出すことって悪いことみたいに思ってるんよね。我慢が美徳、みたいな。それも大事。でも我慢してためて爆発するくらいならば、ブラックな部分を少しづつでも出していくことでガス抜きのようになるんじゃないかと、最近は実験がてら観察しながらブラックタクを出しています笑

■ ■ ダークなタク ■ ■

でも気をつけているのはダークに偏りすぎないこと。この微妙なニュアンス伝わりますかね。ダークなタクってのはほんと陰湿なんですよ。深く、そして暗くて重い。負のネガティブなエネルギー。なんかどっしりとねばっこい。感情的にもなっていて、ネチネチぐちぐち、って感じ。性格がブスってやつですかね。そゆ人いるいる笑。

それと違って、ブラックなタクになるときは、かろやかさ、ポップさや笑える要素、そして自分が思う改善点などを含めて出すようにしていて、ポジティブになるように気をつけてみています。たとえば「とはいえこういうとこはすごいよね。」とか「なんだかんだ基本的には好きなんだけどさ。」とか。あとは怒りとかの感情が乗りすぎないようにもしています。「悪いとこあるでしょ笑。てへ。」みたいな。笑って聞けるような感じかな。

こういうブラックなのってあんまり他人に出したりしたことなかったんで、どうやって出すのか、どんなふうに出したらいいのかまだ慣れてないのです。だからこそどんな形で出すといいのかは気をつけていて、いろんなクッション言葉とかフォローの言葉を使うようにしています。むずいね。でもブラックタクをだすことは効果はあると思ってる。ブラックタクの話を聞いてくれる相手はほんとにありがたい。ぷしゅーっとガス抜きです。

■ ■ 他者比較なタク ■ ■

他人との比較はだいぶ減らした。外見も内面も持ってるものも、やってることとか自分よりすごい(ように見える)人はたくさんいる。でもそのすごい(ように見える)人もたぶん「あの人オレよりすごい...」と思っている相手はいるし、とにかくキリがない。勝ち負けで言えば敵わないものを持つ人は必ずいる。上には上が必ずいる。だからこそみんなそれぞれすごいのです。

この気づきを得たきっかけは街中の人間観察。主に女性の。そもそもですね、キリッとした美人顔で、すらっと身長も少し高めでなおかつ姿勢もいい人を見るとつい眺めてしまうのです。まぁ、いろんな女性をみてしまうんですね。主に顔です。だって男の子だもん。

そうすると系統もいろいろですが、カワイイって思える人はいて、しかもたくさん、それこそキリがないくらいたくさんいるんです。「この人イイ!でもこっちの人もいい!」ってなって、一番って人ははなかなかいない。決められないくら素敵な女性がたくさんいるから。好みもあるしね。何様だかね。なんの話だっけ。

そうそう、他者比較の話。この人間観察を通して「上には上がいる」ってのを思ったのです。それとともに「それぞれがみんなすばらしい。」と思いました。きっかけはちょっとアレですが、このことからめっちゃ敵わないーって思う相手がいても別の部分では自分もいいとこあるって思えるようになったし、そもそも戦わないっていうことをするようになりました。他者比較の前にまず自分。自分が満たされてれば周りは気にしなくていい。あんまり比較しない。

他人にも自分にも「あなた(自分)のここがすごいよね。」ってスーッと素直に見れることが増えた気もします。比較ばっかしてると自己肯定感も下がるんよね。なんかさ、どんなことかはわからんけど、「あなた」という人間単体で見れば、すごいっていうとことは絶対たくさんあるはずですよ。

でもすこし厳しい表現すると、それを社会の中に放り出した時に、いいかわるいかはわからんし、役に立つかどうかは知らん。すごいところに気づいてないだけかもしれんし、一生わからんままのこともあるでしょう。どうやったら今の生きている環境や社会に役立てそうか活かせそうかを考えて悩んで試してみて生きていくのが人生の一つの形なんじゃないの?って思うのです。厳しいかな?これは厳しい優しさと表現しよう笑

■ ■ 自分を知ること ■ ■

これはいろんな手段があると思います。ここ1〜2年よくやっているのは二つ。まずは自分の感情を見つめること。なるべく深く。徹底的に。ざわついたときに、「なぜそう感じたの?」と質問を繰り返して深掘りしていくことは自分を知る大きな手助けとなります。ときには自分の価値観に出会うし、大事にしていることにも出会える。何に対して怒っているかを知るのは大切だと思う。その「何に」のところはその人が大事にしているとこだからって言うしね。

ただ、自分の中に全ての答えはあるものの、自分の外でいろいろな出来事や情報と出会っていくこともちゃんとやらないといけないと思う。そうしないと自分自身の狭い器の狭い世界で巡るだけなので、行き詰まるし広がらない。自分の世界って無限にいくらでも広げられる。

感情の深堀をして感じたこと、見つけたことをなんかしらのかたちでアウトプットすることも大事。友達と対話したり、シェアしたり、文章書いてみたり。その感じたことを知っている状態でまた過ごしてみたり。そしてまた感じたことをもう少し深掘りしてみる。その都度、違う発見もあるだろうし、これを繰り返していくことでより深く、広く自分を知れるんじゃないかと。

ほんでもう一つが、しいたけ占いの表現を借りること。この方の各々の星座別の特徴とか性質を説明するときの表現とか例えはとてもユニークで、頷けることもたくさんある。「あー!それそれ!」っていう当てはまる部分は誰もが共感しやすい。「あー、そういうことね。」ってのは思い当たることがある部分だし、「ほほぅ。なるほどこんな一面も。」となる部分もちゃんと受け止めておく。絶妙な表現で言い表しているしいたけ占いはワイにとっては自分を知るのにとても大きな手助けになります。

■ ■ 締めにかかる ■ ■

そんなことをいろいろあーだこーだしながら、日々、三澤卓の人生楽しいなって思いながら生きてます。

仕事の問題も、経済の問題も、人間関係の問題も、自分自身のこともあり方とかやり方とかも一撃必殺のような解消法なんてなくて、焦らず一歩一歩やってくしかねぇなって思うのです。

じっくりコトコト。日々行進。

うんうん、だいたいいつもいい感じ。

コミュニケーションのオモシロサ

先日落語をみる機会がありまして、落語家の方が、「面白い」という言葉は「笑える面白さ」だけでなく、全部で6つの意味があるとおっしゃっていた。趣があるとか、興味深いとかいろんな意味。その方は、落語を「笑いの面白さ」だけではない「面白さ」を伝えていきたいのだという。

なるほど。そんないろんな意味でコミュニケーションはオモシロイ。そしてすこし怖い。と思った今日このごろです。

◼️ 勝とうとするコミュニケーション  ◼️

自分でやってしまうこともあるんだけど、会話をしていて勝とうとすることがある。張り合う感じ。どうも「勝負」のコミュニケーションをしてしまうと、後味が悪い。ほんでそんな会話をされるとあんまり楽しくない。わかります?

なんというか、シチュエーションと相手にもよるのでなかなかわかりにくいかもしれないんですけど、いらんとこでアドバイスしてきたりとか意見を押し通そうとしてきたりとかなんか張り合ってきたりすんの。

張り合う気持ちはわかるんです。自分も時々それやっちゃうし、自分の身に覚えはあるので。振り返れば、だいたいはすこしイラついたときにやっちゃう。「言われんでもわかっておるわ」とか「お前に言われたくねーよ」とか「なんでわかってくれないの」とか少し感情的になってしまう瞬間にそうなってることが多い気がする。自分の足元がぐらついた時に、プライドとか優位性を保とうとしている。そんな感じ。

受け止める側の感じ方でしょ、と言われればそれまでなんだけども。そう思ってる時点で気づいてない可能性があるし、そう感じさせてしまう時点で知らぬ間に信用を失っているかもしれない。こっわ。気をつけたい。

◼️ 勝ち負けのいく末 ◼️

コミュニケーションっていろんな種類がもちろんあるのだけど、基本的にはちゃんと言葉とか感情とかがお互いにキャッチボールができて成り立つものだと思う。もちろん喋ればいいってもんじゃないし、時には沈黙や間も大事だし、聴くことも訊くことも大事だと思いますよ。

勝とうとするコミュニケーション。張り合ってくるコミュニケーションともいえるな。このコミュニケーションって果たして心は通い合っているのだろうか。少なくとも、「私はこうだから」となかば強制的に押し付けるようになるので、その相手はすっきりしない。相手のことを考えられているのだろうか。お互いが「私はこうだから」のぶつけ合いで、それでもお互いに相手のことを理解しようとして結果的にスッキリできるならいいと思う。

でも、「私はこうだから」ってのをすこし押し付け気味に言った時に相手が「ふーん、そっか。。。」とか「まあそれでいいよ。」とスッて引いた時ってものすごく危険な気がするのです。それって全然よくないです。

感情的にならずに冷静に言ったから大丈夫とかそういう問題ではないのです。勝った(と思っている、もしくはそれすら無意識かもしれない)人はすっきりしてるし、下手すると「わかってくれた」って思ってるかもしれない。でも、相手はたぶん「あ、この人しんどい」って感じてるはずなのです。

このときのコミュニケーションって、相手を従わせたことになっていると思う。そしていくら自分が感情的にならずに言ったと思っていても、相手は気づいてるか、ナニカ感じとっています。

「あ、この人勝とうとしてる。」「この人勝って満足してる。」って。
ほんで「この人はなにを言っても反論してくるし、話を聞いてくれないな。」って。
いくとこまでいくと「もういいや。この人とはあんまり話さんとこ。」って。

これ自分で気づいたことだから書いてるんだけど、「怖い。」と思いました。信用を失っているのかもしれないのです。やっば。

もうこれが、怒りの感情を伴ってこれをやってくる人はほんまにしんどい。でもワイも「だからこうでいってるじゃん!」とか「じゃあもういいよ!」みたいになってることは振り返ってみると、あります。ごめんなさい。最近も身近な人に怒りの感情を乗せたコミュニケーションしてしまったなってのはある。圧を与えてしまった感じ。

◼️ 見出し思いつかない。。。 ◼️

勝ってしまうコミュニケーションってテクニックの一つのようでありながら、とても強引なテクニックで好ましいものではないと思うのです。時には勝負が必要なコミュニケーションもあるでしょう。商談とかディベートとか。でもそれを普通にやっていると、それで損してしまうこともあるなって気がしました。

初対面の人にそんなコミュニケーションはよっぽどできることではないので、信頼関係がすこしできつつあるという捉え方もあるかもしれない。

ちなみに、少なからず相手にぶつけるというか、投げるようなコミュニケーションなので余計に勝ち負け感がでるんです。でも投げるのではなく、感情的にならずに「置く」ような話し方だと勝ち負け感は薄れると思います。分かり合える。

「私はこうだから!」ではなくて「わたしはそれについてはこう思う。」って感じ。話し方伝え方一つで変わるもんです。おもしろい。

◼️ まとめにかかる ◼️

ワイ自身は基本的に、中立中庸の立場でいたいのですが、ときに勝負意識で会話をしている時は相手のことを平等に見れてないんだろうなって感じてます。

誰かと会話した時に、なんだかスーッと気持ちよく終わってないなって感じたときは一人反省会をよくやるんですけど、「勝負しちゃったな。なんでだろ?」って考えるとたいていは相手を平等に見ていないか、もしくは自分に余裕がない。とかとか。

あと思いつきで少し書きますけど、あんまり好かんのは「ごめんね」と「ありがとう」をどことなく「言って終わり。」みたいな「言っとけばいいか。」みたいに感じられるように使うコミュニケーション。「ごめん」っていうなら直すか反省して改善してくれ。「ありがとう」って言うんならもう少しちゃんと言ってくれ。どちらにしても気持ちを込めてくれ。うん、相手に期待しすぎかもしれん。ワイも気をつけよう。

ちなみに「あ、この人勝ちにきてるな。」って感じたときは「ふーん、そっかー…(意味ありげな沈黙)」ってやると相手がなんか感じ取ってくれるような気がします。知らんけど。我慢よくない。

最近は平和主義というよりは調和主義という言葉がおもしろいなって思っています。

そんなこんなだけど、だいたいいつもいい感じ。

自由ってなんなんじゃろか

やっぱりこうして文字にして、思考回路をスッキリさせることでなんか次に進める気がしてる。進化深化。出して空いて生まれる。ぐるぐる循環。

不思議なもんですよ。「投稿」ってボタンを押した瞬間に「世に放たれた」感覚を得られて、ちゃんと外に出した感に包まれるのです。表現したったわーってね。

体験とかから感じたことや考えたことはなるべく新鮮なうちに出していった方がいいと思っています。感情はナマモノ。新鮮なうちに。

◆ 近況とか ◆

3月から平日昼間の普通の仕事に変わり、変わりゆく環境と心境に少しずつ慣れていってる。

環境が変わればルールも変わり、様々な形を変えて束縛はされるもの。自由度が低いというのか、束縛度が高いといえばいいのか、表現はともかくガチガチなのはとても苦手。

とはいえ、今の会社は月金週5で10時~19時という時間においては拘束されるものの、うちは昼飯の時間はざっくりだし(最高)たばこも好きに行けばいいし(やめなきゃ)、水とお茶は飲み放題だし。たまらん。仕事もめちゃめちゃばたばたしてる感じはない。

中小企業というのもあってか、わりとゆるゆる。束縛度合いが非常に低い。もちろんやるべきことはやるのが大前提だし、信頼されることは大事。仕事だもの。ちゃんとやる。

あぁ、週5で6時間か週4で8時間労働がふつうな世界があればいいのに。

◆ 自由と感じること ◆

自由だなって感じるのは、選択肢がたくさんあるときなのかもしれん。そしてそれらを選べる状態であること。選べるかどうかは時間とかお金とか健康面とか、気持ちとか在り方によって変わると思うし、もちろんどれが正解なんてのもない。

「自由」ということについて考えるきっかけになったのは、今の仕事の通勤方法のこと。このことでかなり「自由って壮大なものばかりではなくて、日常の中でもたくさんあるんだなー。」と感じた。うちから会社まで電車で約35分、歩きで40分ちょい、チャリで20分くらい。今のわいワイはどれでも選べる。

メインに選んだのは歩き。40分くらいならいける。一時間超えるとしんどい。理由はいろいろあるけど、満員電車嫌い。あとマナーの悪い人がたくさん目に付くのがいや。もちろん歩きのデメリットもある。

んで、チャリはちょっとギアの調子悪いし、運動はなるべく取り入れときたいから歩きを選んだ。道を少し変えればいろんな発見ができるし、空の下でマイペースにてくてくてくてく歩いていけるのは結構楽しい。飽きるまではやるでしょう。

選べるんだから、寒い時とか雨の時は電車にするし、自分の状態でどんなふうに通勤してもいい。うん、割と自由。

◆ 束縛の中の自由の範囲 ◆

どのポイントで自由と束縛のバランスをとっていくのか。基本的には自由であるほどいいんだけど、ワイの場合、今は束縛度が多少高くてもいいみたい。その中で自由にできる範囲があって「自由だな」って思えたら。

あと思考の柔軟性も大事。基本土日祝休みなのでどこ行くにしても人多いし、旅や旅行も混むし高いし。一泊二日程度が限界かなーとか思ってたし海外旅行も厳しいなーとか思ってた。

でも「じゃあ今の生活リズムの中でどうやったら楽しめるか。」と考えたのです。そしたら、時間が限られた中であっても、弾丸トリップならできるやん!と気づいたのです。一泊二日とかでプラッとただただ海外とか観光地に散歩しにいく、みたいな。

そこで日常とかけ離れた空気感とかを思いっきり感じられて、楽しめるのならば、別にただブラブラしてカフェでお茶でもしてホテルでのんびり、みたいに過ごす旅でもありじゃなかろうか。

北海道いって海鮮丼食べるだけ!とかフィリピンの海でぼーっとするだけ!とかベトナムの喧騒の中うろうろしてフォー食うだけ!とかラスベガス行ってカジノで遊ぶだけ!とか。うわ、書いてるだけでも結構楽しいぞ。ちなみに全部行ったことある場所です。

台湾でフォトジェニックな写真撮るだけとか、ドイツにソーセージとビールを楽しみに行くだけとか、アフリカのサバンナ体験したりとか、フランスの街を散策したりとか。勿体無いと感じるかもしれんけど、サクッと気軽に行くのは本当にありかもしれない。

そうなると問題はお金くらい、かな。

以前の夜勤勤務のときよりも元気な状態での自由な時間は増えるので、ほかにもやりたいことをやっていくことはできるはずなのです。

そういう楽しみ方を見つける柔軟性。「できないー!イライラ…」よりも「どうやったら楽しめるかなー。ワクワク♪」って感じ。

◆ 理想と現実のバランスをとること ◆

「やりたい!」の理想と「やる必要あり!」の現実のバランスがとれていればストレスになりにくい。理想を追いかけることと現実をちゃんと見ることのどちらにかたよりすぎててもよくない。

理想ばかり追ってるとふとしたときに「お金が…」とかなりやすいし、現実ばかり見ててもふとしたときに「しんどい…」ってなっちゃうから適度に遊んで、やりたいことをやる。いろんな意味で「遊び」は大事。心のゆとり。

大人として現実を見つめながら人生をあゆんで、少年のように理想を追いかけ続ける。ワイの特性とか在り方としての、相反する二極性の中でのバランスのとりかたのお話はまた別で書きたいな。思っていた以上にいろんな事柄でこのバランスの話はつながってたのです。

◆ 今思う、自由とは ◆

そういえば、一時期とはいえ週3勤務と物販業で生活できて、時間の自由度を跳ね上げることができたのはすごくいい体験だった。バランス崩して継続はできなかったものの、自分にとっての理想の通過点をちゃんと体験して実感できたから。

結局のところ自由とは、人によって様々。同じ人でも環境によってその感じ方は変わる。お金とか時間とか仕事とか場所とかいろんな面において、たくさんの選択肢がありつつそれらを選べる状態に在ることは「自由」の一つの定義なのではと思う。

一発逆転!みたいな必殺技はそんなにないし、あっても続かない。じっくりコトコトと。焦らずに理想の人生に近づけますように。

うん、日々いい感じ。

なにかの試練なのかと考えさせられる誕生日

誕生日にインフルエンザC型にかかり、なかなか粋な始まりですが、四年前の誕生日にインフルエンザにかかったときはその歳はずいぶんとぶっ飛んだ変化がありましたものです。

今年もなにか、大きな変化があるかもしれないし、どのみち変化とチャレンジの一年になります。ある意味楽しみ。

■ 35歳という年齢 ■

この年齢のことで昔思い描いてたのはたぶん、ふつうに働いてて、結婚して子供がいて、家庭を持っててとかだけれども、「もっと自由に人生楽しんでいいんだ!」と舵を切ってからまあそんな妄想もどこへやら。

昔よりは将来への不安がだいぶ小さくなったり、35歳にもなるのにまだまだエネルギーは湧きあふれでてくるもんだなぁと感じます。

■ いまの人生はベストなり ■

戻るつもりもないけど、もう戻せない人生をいつも歩んでいて、いま歩んでいる人生だからこそ出会えた人たちがたくさんいる。そして、いまの人生を歩んでるから出会えてなかった人もたくさんいると思ってる。

だからこそ、今歩んでる人生上で出会えた大事にしたい人たち、濃くつながってる人たち、ともにいる人たちはとても大事にしたいと願う。なにかしらを共有できてる時点できっと奇跡だから。

「あの出会いがあって今がある」とか「このときの縁で今こうしてる」とか「あのときあの人に救われた」いうのはどんな人生を選んだとしてもかならずある。けど、それらのことがなくても別の形でなんかターニングポイント的なものはあるはず。いかなる人生を歩んでも「あのとき人生が動いた」はあるのです。

なんといったらええのか、「今の人生だからいい」とかではなくて「どんな人生でもいいに違いない」って思ってる。「あの出会い」がなくて、その出会いがなかった人生でも別の必要な出会いがあったはずだし、喜怒哀楽を感じながら精一杯生きてるはずなのです。パラレルワールド

いろんな出来事がある中でつらいことほど「なんで起きたんだ!」ってなりやすい。たとえば恋人との別れとかも、別れたから出会った人とかつながった人もいるし、起きた出来事もあるだろうし、次の恋愛もできただろうし。別れてなかったら、という逆もしかりですけどね。

つらいことも意味がある。そのときにはたぶんわかんない。けど、あとから振り返ったときに「あの失恋はこういうことだったのかも」「あの人との別れはこのためだったのかも」と意味を与えることができて、つらいグレーな思い出が、少し彩りのある思い出に変わるものです。受け取り方次第。

そんなふうに考えてみると、この先の人生もどう転ぼうとベストなんだろうな。そのときはつらいことも、その出来事がより自分を強く成長させてくれるならば、それは意味のあるものなんじゃなかろうか。

と、心の奥でいつも感じているので、どんなつらいことでも心や頭のどこかで「この意味はなんなんだ」「なにを教えてくれようとしてるんだ」と問い続けています。つらいのはつらいけどね。人生修行。森羅万象が師匠。

■ はてさて ■

ワイのこの先の人生って、一生独身でいく人生もありうるでしょう。家庭を持つ人生もありうるでしょう。あと数年で終わる人生もありうるでしょう。元気に100歳まで生きる人生もありうるでしょう。どんな人生もありうるのではないか。

それを少しでも「こういう人生にしたい」っていう意図を持つことで、そこに向かって歩いていけると思う。独身はやだから結婚して家庭もちたいし。すぐ死ぬのも少しやだから、元気に長く生きたいし。自由に遊びたいし。

それでもなお思い通りにいかないのが人生で、そんときゃ「これも運命!」と受け入れる。しかないよねー。人生は偶然と奇跡の積み重ねでしかない。有り難や。

■ 人生おいての夢は「自由自在」 ■

いろいろな人生の実験を通して、人生の目指すところを思い描くことができるようになってきた。というより、抽象度が高かったり、実は心の奥底で想ってたことの言語化ができるようになってきた。

それは「自由自在にできる幅を広げ、この地球上で遊ぶ」ということ。

時間とかお金とか人間関係とか場所とかの選べる幅を可能な限り増やしたい。お金がないからとか時間がないからとかであきらめることを少なくしたい。お金が全てではないし、一つの道具だってのもわかっているけど、ないよりはある方が選択肢は増える。

ここをもう少し掘り下げたときに、まだ見ぬ自分の「家族」が関わってることに気づかされた。

なにかというと、「好きな人、愛する人の願いを叶えたい」ってこと。それがたぶん最高の自分の願い。それを通して好きな人、愛する人の笑顔を見続けたい。そんなあなたを見て、ワイも笑顔になるから。

そのためにも自分の夢や願いはもとより、パートナーやこどもの夢や願いを実現できたり、一緒に叶えたりするだけの経済力とか時間の自由度をもちたい。限度はありますよ。

たとえば、「ここにいきたい!」「これやりたい!」ってときに、「今からいこう!」ではないとしても「じゃあ来週行こっか。」「じゃあ来月に行こっか。」くらいのスピード感で実現できるような。

そうやって共にいろんな体験をして人生を生きていきたい。お互いやりたいこと、目指すことは違ってもいいんだ。他人だからいろいろと違って当たり前なんだ。

他人だから違うっていう前提がある上で、重なり合うとこは共感しあい、違うとこはお互いが歩み寄って妥協点を見つけたり、理解し合えばいい。その上で二人で目指したい人生をお互いが向き合いながらも、同じ方向を向いて共に歩いていきたい。

理想論ですけどね。

■ 人生は実験 ■

前にもちらっとかいたけど、ワイにとっては人生って実験をたくさんし続けてる。「みさわたく」という肉体を使って、地球上でいろんなことを試してる。実験って「実際の体験」と言う意味だけど、どちらかというと「現実の体験」の方がしっくりくるな。

心の中や腹の奥にある想いを現実に表すことで「表現」され、現実の体験を通して「実験」することでいろいろな経験と知恵を得て、「五感の情報」を通していろいろな感情を感じる。

それらの一連の流れを通して感じた感情を元にまた自分の中にある想いが刺激を受けて、新しい想いが生まれたり、洗練されたりする。

これの繰り返し。

想う。やる。できるとこまで、できるだけやる。なんか得られたり感じたりする。また想いをみつめる。こうして一歩ずつ成長してく。だから「やりたい!」はやるっきゃないし、やらずに後悔するならやって後悔する。

■ 相も変わらず ■

われながらこうもたくさんのことを考えているのか、と感心させられる。言語化や文字にするのって難しいので伝わりきらない部分もあるでしょうがね。

こうやってごちゃごちゃ考えてはいるけど、いつも終着点はシンプルに軽やかに楽しく生きてこ、なんですよ。バランスバランス。

だいたいいつもこんな感じ。

だいたいいつもいい感じ。